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アジャンター石窟寺院

デカン高原にある石窟寺院。5世紀のグプタ朝時代を中心に、純インド的なグプタ様式の美術の代表的な壁画や彫刻が豊富である。

グプタ朝時代の仏教美術

 紀元前1世紀頃から紀元後7世紀頃までの数百年にわたる仏教寺院の遺跡で、多くの彫刻と壁画が造られているが、中心はグプタ朝時代の5世紀ごろである。インドの中央、マハラーシュトラ州のデカン高原西側の山中の峡谷に面した断崖の中腹に、29の石窟がつくられている。 → その位置
 実際に掘削にあたったのは、グプタ朝と縁戚関係にあったヴァーカータカ朝のもとでのことであったが、彫刻も壁画もガンダーラに見られたヘレニズム(ギリシア)の影響は見られなくなり、純粋にインド的なグプタ様式の特徴をよく伝えている。
 特にアジャンターの壁画は、純インド的な仏教美術の完成された段階のもので、グプタ朝での仏教の隆盛を伝えている。仏教はこのころ中国との交流も盛んになり、グプタ様式の仏像彫刻は中央アジアのバーミヤンなどを経て、北魏の雲崗の石窟寺院にも影響を与えた。また、6世紀には仏教は日本に伝えられ、仏教美術は飛鳥時代の法隆寺金堂の壁画にグプタ様式の影響を見ることができる。
 → 仏像

世界遺産

 アジャンターの石窟寺院は、1819年、マドラスに駐留していたイギリスの軍人ジョン・スミスが偶然発見した。虎狩りに出かけて虎に襲われ、渓谷に逃げこんだときに崖に無数の穴が開いていることに気づき、逃げこんだところ壁画や仏像を見つけた。すでにインドではその存在は忘れ去られ、コウモリのすみかになっていたが、調査の結果、現在では前1世紀のサータヴァーハナ朝に始まり、4世紀ごろのグプタ朝時代にその従属国家であったヴァーカータカ朝のもとで掘削され、6世紀中頃まで続き、何らかの事情で開削が終わり、仏教の衰退と共に忘れ去られたらしい。
 洞窟内の壁画や仏像は、いずれも純インド的なグプタ様式の傑作である。石窟は30あり、壁画が描かれた時期によって二期にわかれ、第1期は紀元前1世紀から後1世紀ごろで、第2期は5~7世紀ごろにあたる。ここから約70kmほど南にあるエローラ石窟寺院は、これより遅く、8世紀を中心とした仏教およびヒンドゥー教、さらにジャイナ教の要素も含む石窟寺院である。この二ヶ所ともインドの代表的な文化遺産であり、1983年に世界遺産に登録された。
アジャンター石窟外観

アジャンター石窟寺院の外観

アジャンター石窟寺院の内部

アジャンター石窟寺院の内部

トリップアドバイザー提供

・ユネスコ 世界遺産リスト アジャンター石窟寺院

Episode 石窟寺院にすむ虎

 アジャンター石窟はワゴラー川の湾曲したところの崖に作られているが、発見のきっかけが虎狩だったように、昔から虎がいた。虎はワゴラー川を水場にして近くの農家の牛をしばしば襲っていた。野生の虎はすでに狩りつくされ、森林局が繁殖を計画してつがいの虎を放したので、最近では子ども連れの虎が山野を歩いている。観光客が多い時間は山奥に逃げこんでいて夜になると石窟に戻ってくる。朝、管理人たちがいく頃には既に姿を消してるので糞をかたづけるのだそうだ。<大村次郷『カラー版遺跡が語るアジア』2004 中公新書 p.42>

修理と保護

 2001年、ワゴラー川に橋を架け、遺跡の第10窟に行く道をつくり、観光客を左右に散らすようにした。従来は第1、第2窟から順に回るようになっていたが、それだと最も古い壁画のある第1,2窟に人が溜まり、傷みが避けられないので、人の流れを分散させようという計画である。石窟は空気の通りが悪いので、見る人が多くなると窟温が上昇し、壁画の表面に産み落とされた虫の卵が孵化し、壁画を壊してしまう。そこで化学班は毎日石窟の気温と湿度を計測し、年に数回は毒ガスを入れて燻蒸作業をおこなっている。化学班のもう一つの仕事が、剥落止めと西洋人が模写したときに塗った表面のワニスを取ることである。ワニスを塗ると色が鮮やかになり模写が楽だったのだという。彼らは模写が終わっても洗わずに立ち去った。模写に来た画家には日本人もいた。岡倉天心もここを訪れている。保護するには非公開にして立ち入り禁止にするのが最も良いが、観光で成り立つ地域経済からは禁止に出来ないジレンマがある。ジレンマのなかでアジャンターの化学班は虫の卵と闘っている。<大村次郷『同上書』p.47-48>
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書籍案内

大村次郷
『カラー版遺跡が語るアジア』
2004 中古新書