印刷 | 通常画面に戻る |

仏教

前6世紀ごろ、バラモン教にかわる新宗教として北インドでガウタマ=シッダールタによって始められた。前3世紀マウリヤ朝のアショーカ王、後2世紀のクシャーナ朝カニシカ王による保護によって隆盛。出家者の悟りを主とした初期仏教から、次第に信者の救済を目指す大乘仏教が生まれ、中央アジアを経て中国に伝えられた。初期仏教を継承した上座部仏教は南インドから東南アジアに伝播した。インドでは4世紀のグプタ朝時代に仏教文化が隆盛したが、民衆間ではヒンドゥー教と競合した。11世紀以降イスラーム教が伝えられ、仏教は次第に衰え、13世紀初頭にはインドではほぼ消滅した。しかし東アジア、東南アジアでは文化の基盤として浸透し、現在も世界宗教として続いている。

 古代のインドの前6世紀頃、北インドに多くの都市国家が成立すると、それぞれ新しい都市国家の中で保守的・形式的であったバラモンらは権威を失い、王族(クシャトリヤ)の勃興を背景として、自由で新しい思想家が生まれた。彼らは沙門(サマナ、励む人の意味)と呼ばれ、世俗を離れて出家し、さまざまな新思想を展開した。仏教の創始者ガウタマ=シッダールタジャイナ教の創始者ヴァルダマーナ(マハーヴィーラ)らも、そのような自由な新思想家の一人であった。 → キリスト教イスラーム教ヒンドゥー教

ブッダの教え 八正道

 ガウタマ=シッダールタ、つまりブッダの教えの要点をまとめると次のようになろう。ブッダは、バラモン教の聖典ヴェーダの権威や儀式を認めず、またヴァルナ制度(カースト制)も否定した。そのような儀礼や身分にとらわれない、自己の解放を目指したといえる。まず、人生は生老病死の四苦をはじめとしてすべて苦である(一切皆苦)ととらえる。この人生の苦を解決するために苦、集、滅、道の四諦(四つの真理)を説く。苦諦は人生はすべて苦であるという真理、集諦(じったい)は苦の原因は心の迷い、煩悩にあるという真理、滅諦は煩悩を滅ぼすことで苦を取り除くことが出来る真理、道諦は正しい実践によって苦をなくすことが出来るという真理、である。正しい実践とは、正しく見(正見)、正しく考え(正思)、正しく話し(正語)、正しく行動し(正業)、正しく生活し(正命)、正しく努力し(正精進)、正しく思いめぐらし(正念)、心を正しく置く(正定)の八正道である。またその世界観の中心には諸行無常、諸法無我、涅槃寂静の三法印(教理)がある。・・・・そのすべてを述べることはスペースがないのでやめることとします。

仏教の成立

 仏教は、前5世紀頃、ガウタマ=シッダールタが悟りを開いてブッダとなり、ガンジス川中流のマガダの地でその教えを人々に説いたことに始まり、次第にクシャトリヤやヴァイシャ層に広がっていった。その教えを信じた人々が出家し、サンガといわれる仏教教団をつくり、または在家信者も増えていった。ブッダの死後、インド各地に広がり、特に前3世紀のマウリヤ朝のアショーカ王の保護のもとで全インドに広がった。

マウリヤ朝による保護

 前4世紀末に都市国家を統一したマウリヤ朝の3代目の王アショーカ王(在位前268~232)は、インド各地に軍を進め、戦争を繰り返して領土を広げた。前259年頃、東海岸のカリンガ国を征服したとき、多くの血が流されたことに心を痛め、仏教に帰依し、ブッダの慈悲の精神をもとにした法(ダルマ)を国家統治の基本とした。アショーカ王の行った仏教保護政策は、磨崖碑・石柱碑の全国への設置、ストゥーパの建設、スリランカへの伝道、仏典結集などがあげられる。

仏教の広がりと分裂

 ブッダの死去(仏滅)の百年後ごろ、拡大した仏教教団は、伝統的・保守的な上座部と、進歩的・革新的な大衆部との二つの分裂した。さらにその後も分裂が続き、約二十の部派が成立した。この部派に分かれた時代の仏教を部派仏教といっている。アショーカ王時代に保護された仏教の主力は上座部仏教であったので、前3世紀半ばにスリランカに伝えられ、いわゆる南伝仏教となり、東南アジア一帯に広がったのは上座部仏教であった。
 これらの部派仏教の僧侶たちは権力者の保護のもと、僧院の中で他派との論戦を繰り返す中で学問的な研究を主体とするようになり、しだいに民衆の悩みや苦しみを救済するという実践的な活動からは離れて行き、貴族的になっていった。

クシャーナ朝 仏教の新展開

 マウリヤ朝は前180年ごろ滅亡し、その後現在のアフガニスタン地方のギリシア系のバクトリア王国が北西インドに進出してきた。これによって紀元前後にインドにヘレニズムの影響が及んできた。紀元後1世紀ごろ、にはクシャーナ朝が成立し、中央アジアから北西インドにかけて支配した。このクシャーナ朝時代には仏教が2つの点で大きく展開した。
  • 大乗仏教の成立 紀元前後の西北インドから大乗仏教が登場し、2世紀中ごろナーガールジュナ(竜樹)によって理論化され、部派仏教と並んでひろがっていった。同じころ、クシャーナ朝のカニシカ王は大乗仏教を篤く保護した。大乗仏教は、上座部仏教のめざす自己救済ではなく、広くすべての人間(衆生)の救済をめざし、そのような力をもつ菩薩を信仰の対象とするという、新しい仏教であった。大乗とは「大きな乗り物」の意味で、その立場からは旧来の部派仏教は「小乗仏教」と蔑称で呼ばれた。
  • 仏像彫刻の始まり クシャーナ朝時代からヘレニズムの影響で、インドで仏像が造られるようになった。仏教は偶像崇拝を否定していたので、シャカの時代やマウリヤ朝時代は仏像は造られなかった。シャカの像というレリーフがあっても、沙羅双樹の木は描かれていても、シャカの姿は顕されていなかった。ところがクシャーナ朝時代のインド北西で発達したガンダーラ美術には仏像が多数造られており、それらはバクトリアを通じて伝えられたヘレニズムのギリシア彫刻の影響を強く受けていることが見て取れる。(※最近では仏像のはじまりをガンダーラではなくマトゥラーとする説が有力である。)
  • 北伝仏教 私たちが仏教というとすぐに思い浮かべる寺院の中心に据えられた仏像というのは、仏教の本来の姿ではなく、ヘレニズムの影響でクシャーナ朝時代に始まり、それが衆生を救済するという大乗仏教の菩薩信仰と結びついて、中国を経て日本にも及んできたのだった。大乗仏教は北インドから西域を経て後漢時代に中国に伝播し、いわゆる北伝仏教として、朝鮮半島を経て6世紀に日本に伝えられた。聖徳太子が注釈書を書いた『勝鬘経』『維摩経』は大乗仏教の在家主義にたつ経典であった。

グプタ朝以降の仏教

 4世紀にはグプタ朝が成立した。この王朝はガンジス川流域に起こった王朝で、インドの文明を継承しており、その宮廷では従来の仏教と並んで、インド社会固有の宗教であるバラモン教からうまれて、その頃民衆に定着していたヒンドゥー教も保護された。この時代の仏教はただちに衰退したわけではなく、依然として宮廷の保護も受け、5世紀にはナーランダー僧院も造られている。しかし、仏教は次第に民衆から離れた、いわば知識人の学問という性格に転換し始めており、民衆にはカースト制と結びついた伝統的な社会慣習を基盤とした多神教であるヒンドゥー教が深く浸透していたのである。この傾向は、次の7世紀のヴァルダナ朝も同様であり、仏教は依然として宮廷の保護を受けていたが、大衆にはヒンドゥー教がさらに浸透していった。
  • グブタ様式の仏像 それは美術の面にも現れており、この時代のアジャンターエローラ多数造られた石窟寺院に見られるグプタ様式の仏像やヒンドゥー教の神像は、ヘレニズムの影響が薄れ、インド独自の表現(現在の私たちが見ている仏像に近い表現)が強くなっている。
  • 中国僧のインド来訪 グプタ朝からヴァルダナ朝にかけて、中国から多くの僧侶が仏典を求めてインドにやってきた。著名なものを挙げれば、まず5世紀初め、グプタ朝のチャンドラグプタ2世の時の法顕、7世紀のヴァルダナ朝のハルシャ=ヴァルダナ王の時の玄奘、7世紀末の義浄である。玄奘と義浄はナーランダー僧院で学んでいる。これ以後、独自の中国仏教の展開が見られるようになる。なお、7世にはチベットにも伝えられ、土着の宗教と結びついて、独自のチベット仏教が成立した。
  • 密教の成立 7世紀には大乗仏教の一つの宗派として密教も生まれた。これは神秘的な呪術によって現世的な利益を図ろうとするもので、ヒンドゥー教の影響を強く受けたものであった。密教は中国にも伝えられて深められて、9世紀には中国に渡った空海や最澄によって日本に伝えられ、それぞれ真言宗天台宗として日本の仏教の主流となり、独自に発展していく。

インドにおける仏教の衰退

 インドにおいては、仏教は4世紀以降はヒンドゥー教に押されて次第に衰え、11世紀のイスラーム教の本格的な浸透によって、寺院が焼かれるなどの排撃をうけることとなった。例外的にベンガル地方にあったパーラ朝では、ナーランダー僧院が復興されるなど、なおも仏教が保護されていたが、13世紀はじめにその滅亡と共に仏教はインドにおいてはほぼ消滅した。
インド仏教の消滅 パーラ朝のもとではナーランダ僧院の復興と共に、密教の総本山としてヴィクラマシラー僧院が建設された。アフガニスタンのムスリム政権ゴール朝はたびたび北インドの仏教寺院の破壊を繰り返していたが、1203年、ベンガル地方にまで侵攻し、ナーランダー僧院、ヴィクラマシラー僧院を破壊した。僧たちは大挙してネパール、チベット、ビルマへと難を避けた。インドの仏教はその後も細々と存続したが、この逃避は事実上の終末を意味する象徴的出来事となった。僧侶がさった後、信者たちはヒンドゥー教に吸収されるか、イスラーム教に改宗した。<山崎元一『古代インドの文明と社会』中央公論社版世界の歴史3 p.316>
ヒンドゥー教の定着 ヒンドゥー教がインドで民衆に支持された背景には、6世紀ごろ南インドに起こり、16世紀ごろまでに全インドに広がったバクティ運動がある。これは知識や理論よりも感覚や情緒によって一心に神を愛することによって恩寵を得ようとする信仰であり、ヒンドゥー教の立場から仏教・ジャイナ教を排斥するものであった。
インド仏教の衰退の理由 インドにおいて仏教が衰退した理由はいくつか考えられる。
  • 第一に仏教が都市型の宗教であり、大商人の寄付によって教団を維持していたが、その都市がヴァルダナ朝以降衰えたことがあげられる。
  • 第二にヒンドゥー教バクティ運動によって大衆に受け入れられたことである。仏教の在家信者は僧から法話を聞くが、日常の宗教儀礼はバラモンに依存していた。
  • 第三はヒンドゥー教と結びついてカースト制度が形成されたことである。カースト制を否定する教理を持つ仏教は、次第にその現実と離反していった。
 こうして民衆を基盤としない僧侶たちは11世紀にイスラーム教勢力の侵入が本格化して寺院と僧院が破壊されると、安心して修行の出来る地を求めてインドの地を捨て、ネパールやチベットに避難していった。ヒンドゥー教のバラモンたちは地域社会に根を下ろしているのでその地にとどまり、嵐が去った後の再建に努力した。ジャイナ教の寺院も同じく破壊されたが、その信者であった民衆はその地にとどまっていたため、やがて復興することができたのだった。
 現在のインドの仏教は、20世紀にカースト制と不可触賎民差別に対する運動を行ったアンベードカルらがヒンドゥー教から仏教に改宗して「新仏教運動」を展開し、約300万に復興している。<山崎元一『古代インドの文明と社会』中央公論社版世界の歴史3 p.311-320 などによる>
印 刷
印刷画面へ
書籍案内

三枝充悳
『仏教入門』
1990 岩波新書

山崎元一
『世界の歴史3
古代インドの文明と社会』
1998 中公文庫

三枝充悳
『インド仏教思想史』
2013 講談社学術文庫