ドヴァーラヴァティー王国
7世紀、モン人が現在のタイのチャオプラヤ川流域に建国した。9世紀ごろまで港市国家として栄え、仏教も盛んだったが10世紀に消滅した。
東南アジア 7~8世紀 地図
ドヴァーラヴァティーは地図中の d の範囲
仏教の受容
ドヴァーラヴァティーはモン人の国であり、その中心は現在のバンコクの西50kmに位置するナコーンパトムであったとの説が一般的である。ナコーンパトムには今もプラパトムチェーディーという大きな仏塔が町の中心部に存在することで有名で、この仏塔は何層にも重ねて再構築されたおのであるが、基壇はこの時代に造られたものと言われている。漢籍史料では「堕羅鉢底」の名前で書かれており、発見された銀貨にもドヴァーラヴァティーの名が刻まれている。またその独特な様式の美術品や環濠集落の跡が広く分布しており、仏教文化が広く栄えていたと考えられている。<柿崎一郎『物語タイの歴史』2007 中公新書 p.26-27>Episode 日本にやってきたドヴァーラヴァティ人
奈良時代の文献『日本書紀』によると斉明天皇の時の西暦657年に、「覩貨邏国の男二人、女四人、筑紫に漂い泊まれり」という記事がある。これがドヴァーラヴァティ人であろうと言われている。おそらく中国への使節か交易に赴いたドヴァーラヴァティ人が嵐に流され、日本に漂着したのであろう。参考 日本書紀に見える覩貨邏国 覩貨邏国(吐火邏国)がドヴァーラヴァティー王国のことだろう、という推定は根拠があるのかと、怪しまれたであろうと思う。この説明は日本古典文学大系『日本書紀』下(坂本太郎等校注)の補注を参考にした。その補注では次のように説明している。
日本書紀には覩貨邏は他に吐火邏、堕羅とも書かれている。それについては古くから西域の吐火邏、すなわち現在のウズベキスタンのボハラ(ブハラ)のあたりとする説があった。また、九州の南西諸島の土噶唎諸島説、ビルマのイラワジ川中流のプロムにあった驃(ピュー)国説、などもあった。一方、中国史書には現れるドヴァーラヴァティは、堕和羅、独和羅、堕羅鉢底など、はじめを濁音として書く場合と吐和羅、吐和羅鉢底などのように清音で記す場合があり、「ド」の音は墜とも吐とも書かれていた。堕和羅・吐和羅はいずれもドヴァラの音訳であると推定できる。そして『旧唐書』には貞観十二年(640)に堕和羅の王の使いが象牙大珠を献上した記事がある。このような唐とドヴァーラヴァティの関係を考えれば、ドヴァーラヴァティの使節が海上で唐を目指し、その一部が筑紫(九州)に漂着したものが日本書紀の覩貨邏(吐火邏)人の記事であろうと推測できる。<日本古典文学大系『日本書紀』下 坂本太郎他校注 1965 岩波書店 p.575>
なお、唐の僧玄奘の著した大唐西域記にも覩貨邏国というのが現れる。これについてはドヴァーラヴァティではなく、中央アジアのトハラのこととも考えられる。トハラは現在のイランの東北部、アフガニスタン一帯にあたり、古くから東西交渉の要地として栄え、前2世紀にはバクトリアから自立したトハラ国があったところで、中国文献では「大夏」といわれていたらしい。後には大月氏国、クシャーナ朝の支配を受けていた。しかし、中央アジアのトハラ人が筑紫に漂着したとは考えにくく、日本書紀に現れる覩貨邏(吐火邏)人はトハラではなく、現在のタイにあったドヴァーラヴァティとするのが順当であろう。<2024/12/21記>