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ドヴァーラヴァティー王国

7世紀、モン人が現在のタイのチャオプラヤ川流域に建国した。9世紀ごろまで港市国家として栄え、仏教も盛んだったが10世紀に消滅した。

東南アジア 7~8世紀 地図

東南アジア 7~8世紀 地図
ドヴァーラヴァティーは地図中の d の範囲

 7世紀頃、現在のタイに現れた最初の国家であるが、タイ人が建てたのではなく、タイからビルマにかけて活動したモン人の建てた国と言われている。現在、チャオプラヤ川下流のアユタヤを中心に遺跡が発掘されている。チャオプラヤ川を利用して内陸部と南シナ海交易圏を結ぶ交易活動を行った港市国家であった。インド文化の影響を受け、上座部仏教が保護され、仏像などが発掘されている。また、この時代の仏教寺院建築として残っているのが、プラパトム寺院である。7世紀には中国の文献に現れ、玄奘は「堕羅鉢底国」、義浄は「杜和鉢底国」として伝えている。9世紀頃には衰え、10世紀頃に滅亡した。

仏教の受容

 ドヴァーラヴァティーはモン人の国であり、その中心は現在のバンコクの西50kmに位置するナコーンパトムであったとの説が一般的である。ナコーンパトムには今もプラパトムチェーディーという大きな仏塔が町の中心部に存在することで有名で、この仏塔は何層にも重ねて再構築されたおのであるが、基壇はこの時代に造られたものと言われている。漢籍史料では「堕羅鉢底」の名前で書かれており、発見された銀貨にもドヴァーラヴァティーの名が刻まれている。またその独特な様式の美術品や環濠集落の跡が広く分布しており、仏教文化が広く栄えていたと考えられている。<柿崎一郎『物語タイの歴史』2007 中公新書 p.26-27>

Episode 日本にやってきたドヴァーラヴァティ人

 奈良時代の文献『日本書紀』によると斉明天皇の時の西暦657年に、「覩貨邏国の男二人、女四人、筑紫に漂い泊まれり」という記事がある。これがドヴァーラヴァティ人であろうと言われている。おそらく中国への使節か交易に赴いたドヴァーラヴァティ人が嵐に流され、日本に漂着したのであろう。
参考 日本書紀に見える覩貨邏国 覩貨邏国(吐火邏国)がドヴァーラヴァティー王国のことだろう、という推定は根拠があるのかと、怪しまれたであろうと思う。この説明は日本古典文学大系『日本書紀』下(坂本太郎等校注)の補注を参考にした。その補注では次のように説明している。
 日本書紀には覩貨邏は他に吐火邏、堕羅とも書かれている。それについては古くから西域の吐火邏、すなわち現在のウズベキスタンのボハラ(ブハラ)のあたりとする説があった。また、九州の南西諸島の土噶唎とから諸島説、ビルマのイラワジ川中流のプロムにあった驃(ピュー)国説、などもあった。一方、中国史書には現れるドヴァーラヴァティは、堕和羅、独和羅、堕羅鉢底など、はじめを濁音として書く場合と吐和羅、吐和羅鉢底などのように清音で記す場合があり、「ド」の音は墜とも吐とも書かれていた。堕和羅・吐和羅はいずれもドヴァラの音訳であると推定できる。そして『旧唐書』には貞観十二年(640)に堕和羅の王の使いが象牙大珠を献上した記事がある。このような唐とドヴァーラヴァティの関係を考えれば、ドヴァーラヴァティの使節が海上で唐を目指し、その一部が筑紫(九州)に漂着したものが日本書紀の覩貨邏(吐火邏)人の記事であろうと推測できる。<日本古典文学大系『日本書紀』下 坂本太郎他校注 1965 岩波書店 p.575>
 なお、唐の僧玄奘の著した大唐西域記にも覩貨邏国というのが現れる。これについてはドヴァーラヴァティではなく、中央アジアのトハラのこととも考えられる。トハラは現在のイランの東北部、アフガニスタン一帯にあたり、古くから東西交渉の要地として栄え、前2世紀にはバクトリアから自立したトハラ国があったところで、中国文献では「大夏」といわれていたらしい。後には大月氏国、クシャーナ朝の支配を受けていた。しかし、中央アジアのトハラ人が筑紫に漂着したとは考えにくく、日本書紀に現れる覩貨邏(吐火邏)人はトハラではなく、現在のタイにあったドヴァーラヴァティとするのが順当であろう。<2024/12/21記>