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三国干渉

日清戦争後の1895年4月、日清間の下関講和条約で遼東半島が日本に割譲されたことに対しロシア・フランス・ドイツの三国がその清への還付を勧告した。日本は三国干渉を受諾し、遼東半島を還付した。三国は清に対して干渉の見返りを求めるようになり、1898年の中国分割の前提となった。日本は干渉を主導したロシアに対する復讐心を抱き、1904年の日露戦争への要因となった。

 日清戦争に勝利した日本は1895年4月17日下関条約を清国との間で締結した。それによって清国から遼東半島・台湾及び澎湖島を獲得した。しかし、6日後の1895年4月23日ロシア・フランス・ドイツ三国の公使は外務省の林董次官を訪ね、日本の遼東半島領有は清国首都を脅かし、朝鮮の独立を妨げるとして、その放棄を勧告した。この三国干渉は、ロシア(ニコライ2世)の蔵相ウィッテが主唱して、フランスとドイツに働きかけたものであった。
 林次官は直ちに広島大本営(日清戦争開始に伴い設置され、天皇、首相以下が滞在していた)の伊藤博文首相、病気療養中(兵庫県舞子)の陸奥宗光外相に急報した。翌24日、伊藤首相は直ちに閣議を召集、さらに次の日、陸奥外相の意見に従い、三国干渉を受け入れることに決した。

日本の状況

 伊藤博文内閣の陸奥宗光外相は、日本が中国から領土を獲得すれば、他国の干渉を招くことを予想していたが、戦勝に酔い大きな戦果を獲得すべしと言う国論の高まりを背景に、内政的観点から清国側に大きな代償を求めざるを得ないと判断し、講和条件に賠償金と共に遼東半島・台湾・澎湖諸島の割譲を入れた。1895年4月23日、三国干渉という形で強い圧力が加えられると、伊藤首相は広島で御前会議を召集、1.勧告の全面的拒否、2.この問題の処理を列国会議に委ねる、3.勧告を受けいれる、の三つの選択肢を検討した。御前会議は第2案に傾いたが、当時病床にあった陸奥宗光は、第2案では遼東半島還付以外に波及する怖れがあるとして、第3案を主張し、それが結論となった。政府はこの痛恨事に悲憤慷慨する国民に対し、日本はロシアと戦うには国力は微弱で、この際「臥薪嘗胆」をスローガンに、国力を培養することを訴えた。<細谷千博『日本外交の軌跡』1993 NHKブックス p.27>

遼東半島の還付

 5月5日、日本は三国に対し遼東半島の放棄を声明した。ただし下関条約は変更しないこととし、遼東半島還付は別途に条約を結ぶこととして、8日、清との間で下関条約の批准交換を行った。遼東半島還付条約は11月8日に調印され、日本は新たに3000万両(テール)の代償を得た。遼東半島は12月21日に清国への還付を終え、7ヶ月間は日本領であったが、政府は邦人の渡航を禁じていた。
 遼東半島の還付は当然、国内に強い反対論が巻き起こったが、三国干渉を拒否した場合、清国の批准が遅れ、下関条約そのものが破約される恐れがあるという陸奥外相らの判断によって、早期決着が図られたのだった。還付声明後に日本人のプライドを傷つけたという感情的な非難が渦巻いたが、政府はその声を聴く余裕はなかった。そのため、ロシアに対する悪感情は日本人の中に深く根ざすこととなり「臥薪嘗胆」(中国の春秋時代に激しく争っていた呉王夫差越王勾践が薪の上に臥せ(寝て)、苦い肝を嘗めながら屈辱を忘れなかったという故事)という合い言葉が叫ばれた。<佐々木隆『明治人の力量』日本の歴史21 2002 講談社 p.140-150>
 そのようなロシアに対する復讐心から、国力不足の解消、なかんずく軍備拡張は当然との声が巻き起こり、それまで議会で軍備増強に反対してた政党も、政府の軍拡予算を承認するようになった。当初からロシアの干渉が予想された遼東半島領有を講和条件に入れたことが正しかったのか、という議論はなかったようだ。それがロシアとの関係を悪化させ、日露戦争へと向かい、そこで多くの血を流して獲得した満州を生命線として日中戦争へとつながっていった。日本の戦争の歴史が日清戦争に始まったことは間違いが無いだろう。

三国の状況

 日本に干渉を加えてきたロシア、フランス、ドイツの状況はどうだったのだろうか。
ロシア ロシアニコライ2世(在位1894~1917)のもとでウィッテに主導された工業化とアジア進出を狙っていた。特にシベリア鉄道への投資などでフランスに接近し、1894年1月に露仏同盟を結び、ドイツ・オーストリア・イタリアの三国同盟に対抗しようとしていた。ロシアは三国干渉を主導して遼東半島を還付させたことで、清に対する影響力を強め、1896年6月、露清密約を結んで満州を横断する東清鉄道の敷設権を認めさた。さらに朝鮮での発言権を強め、親露派を通じて内政への干渉を行い、日本との対立を深めることとなる。1898年中国分割では遼東半島の旅順・大連を租借する。
フランス フランス第三共和政の下で、右派が台頭し、ドレフュス事件が始まるころであった。国内では工業力の成長と共に、領土的な膨張を盛んに要求するようになっており、アフリカなどでイギリスとの競合が明らかになりつつあった。普仏戦争以来のドイツとの敵対関係から、ドイツ・オーストリア・イタリアの三国同盟に対抗するために、この年1月に露仏同盟を結んでロシアとの提携を強めていた。フランスは1898年の中国分割では広州湾を租借する。
ドイツ ドイツはオーストリア・イタリアと三国同盟を締結していたので、ロシア・フランスとは対立関係にあった。そのためドイツが三国干渉に加わったことは、日本では意外に思われた。しかしドイツのヴィルヘルム2世(在位1888~1918)は、そのころイギリスと対抗する世界政策を強めており、イギリスが極東で忙殺され中東で後退することを期待し、その勢力を牽制するために、アジアでのロシアの進出をむしろ歓迎した。ロシアが東アジアに目を向けることで、バルカンから後退することも望んだ。日本の陸奥宗光外相は、ドイツが三国干渉に加わった最大の理由は、露仏同盟を牽制する狙いであると見ていた(下掲)。さらに、ヴィルヘルム2世は日本人の世界への進出を黄禍として恐れていた。ドイツは1898年3月に、山東省でドイツ人宣教師が殺害されたことへの賠償を要求して膠州湾を租借し、中国分割に加わった。
 つまり、日本の遼東半島進出を直接的に脅威と感じてそれを妨害しようとしたのはロシアであり、ドイツとフランスは、イギリスと対抗する上で、ここではロシアを支援するのが得策、と考えたのだった。

イギリスの不介入

 では、そのイギリスはどうだったのだろうか。日本は日清戦争開戦以前から、ロシアが日本の勝利と領土獲得を強く警戒していることを承知していたので、ロシアと対立した場合はイギリスを味方に付け、その仲介を期待していた。下関条約第5条で長沙、重慶、蘇州、広州の新たな開市を加えたのは、イギリスの支持を得ることが目的だった。下関条約が締結されれば、最恵国待遇でそのまま欧米諸国にも認められ、それは中国大陸との通商を拡大したいイギリスにとって好ましいことだったからだ。そのため、イギリスは4月8日の閣議でロシア政府からの共同干渉の申し入れを拒否していた。しかし、そのことはロシア・フランス・ドイツ三国が日本に干渉することに反対して日本を支持することまでは意味していなかった。
 三国干渉に際し加藤高明駐英公使はイギリスに支援を求めたが、キムベリー外相は三国の干渉は本気のものであること、イギリスはこの問題に介入する意志はないことを知らされただけであった。当時イギリスは中央アジアでロシアと、東南アジアとアフリカでフランスとの対立を抱えており、東アジアの問題でこの両国と対立することは論外であった。外相キムベリーが加藤公使と会談したとき遼東半島の位置を知らなかったという挿話は、満州問題にかんするイギリスの関心の程度をしめすものである。<坂野潤治『近代日本の出発』大系日本の歴史13 1993 小学館ライブラリー p.257-258>
 イギリスは1898年6月に列強による中国分割に加わり、九竜半島北部と1898年7月威海衛租借を行っている。威海衛は日清戦争で日本海軍が攻撃した清国海軍の軍港だった。

三国干渉後の中国分割

 ロシア・フランス・ドイツは極東での日本の進出を危惧して結束し、三国干渉を行い、それに成功した報酬(見返り)を清に求め、租借地の獲得・鉄道敷設権の獲得などの形で、中国分割を進めることになる。イギリスはロシア・ドイツの進出に対抗して中国分割に加わった。特にロシアの進出に対しては日本と利害が一致するので、日本の軍事力の急速な膨張を警戒しながらも、1902年には日英同盟を締結することとなる。
 清朝政府の李鴻章はロシアと結んで日本の進出を抑えようと考えていたので三国干渉を歓迎し、遼東半島の還付を受けた。しかし、三国は清に対してその報酬を求め、ロシアは1896年に東清鉄道敷設権を獲得(露清密約)、さらに98年に遼東半島の南端の旅順・大連の租借権を認められた。同様にフランスは95年に安南鉄道の延長や雲南・広東などでの鉱山採掘権を獲得し、98年には広州湾の租借権を延長させ、ドイツは98年に膠州湾の租借権を獲得した。このような三国の中国侵出に対抗するため、イギリスも威海衛と九竜半島の租借を認めさせた。清が列強の租借に応じたのは、下関条約での日本への賠償金支払いの原資を得るためであった。このような日清戦争後の列強による露骨な中国分割の危機に直面し、清朝内部にもようやく変革の動きが現れ戊戌の変法が始まるが、その運動は保守派によって弾圧されてしまう。

朝鮮情勢への影響

 日本政府が三国干渉を受け入れたことは、日本がロシアに屈したと受け取られたので、両国が勢力を争っていた朝鮮王朝においても大きな影響があった。日清戦争は朝鮮内の親日派を台頭させたが、三国干渉の受諾は、親ロシア派が台頭することをもたらしたのである。親ロシア派は、王妃であった閔妃とその一派であった。ロシア公使ウェーベルは、盛んに閔妃に取り入り、通商条約の締結や鉄道敷設権・鉱山開発権などの利権を認めさせ、その一方で親日派を排除したり、日本軍人を顧問とした訓練隊を解散させるなどの手を打った。これに対して日本公使井上馨はロシア勢力の伸張を阻止するためには閔妃を除く必要があると考えるようになったとも考えられる。それが、次の公使となった三浦梧楼によって実行されたのが同1895年10月の閔妃暗殺事件である。しかしそれはかえって日本の立場を悪化させ、日本は朝鮮でのロシアとの対立で不利になっていった。この朝鮮における両国の勢力争いがエスカレートし、日露戦争へとつながていく。

参考 陸奥宗光の『蹇蹇録』

 日清戦争の時の日本の外務大臣であった陸奥宗光は、戦後まもなく『蹇蹇録』を書き、日清戦争とその前後の外交について、当事者としての弁明に努めている。それは戦争に至った経緯と共に李鴻章との下関談判、そして三国干渉の経緯を細部にわたって説明し、歴史の記録として貴重であるが、そこに述べられているのは、遼東半島割譲が日本にとっていかに正当な要求であったか、同時にそれを三国干渉によって直ちに清に還付したことが、いかに正しい選択であったか、という自分の外交判断の正しかったことの訴えであった。
遼東半島割譲要求の理由 遼東半島割譲要求が日本にとってやむを得なかったことだった理由として陸奥宗光があげていることは、
(引用)当時国民一般は論なく、乃ち政府部内にありてすら清国の譲与はただその大ならんことをこれ欲し、帝国の光輝は多々益々揚らんことを欲し、現に広島御前会議において余が提出せる講和条件案を視て、その遼東半島割地の外なお山東省の大部分を添付せんことを希望すると演べたる人ありしほどなれば、その他に割地の広大ならんことを望む者固より少なからず。いわんや……皇師、北京城を陥るるまでは決して和議を許すべからずと主張せし者さえありたるにおいてをや。戦勝の狂熱は社会に充満し、……もし講和条約中特に軍人の鮮血を濺いて略取したりという遼東半島割地の一条を脱漏したらんには、如何に一般国民を失望せしめたるべきぞ。……<陸奥宗光/中塚明校注『新訂蹇蹇録 日清戦争外交秘録』1983 岩波文庫 p.368>
ということだった。国民の世論、軍の要求が強かったことからやむを得なかったという。
想定外だったドイツの参加 三国干渉については、陸奥宗光はロシアが還付を要求してくることは事前に想定しており、ロシアだけであったら恐れるべきではないと考えていたようだ。しかし、フランスとドイツが加わったことにより、もしこの三国との戦争になり、しかもイギリスの支援がないままであれば、当時の日本の軍事力では勝ち目はないことは明らかだった。特にドイツが加わったことは、陸奥にとっても想定外だったようだ。ドイツがロシアと同調することを予測できなかったことを、陸奥宗光の判断の誤りとする厳しい見方もできる。
 それでは陸奥宗光はドイツの三国干渉への参加をどのように視ていたのだろうか。
(引用)……独逸をして俄に三国干渉の主唱者となり、露国はともかくもその旧怨深き仏国とさえも相聯合して、日本に反対するまでに豹変せしむるの理由もなきが故に、余は初めより独逸の豹変は必ず別に欧州政略的の関係より、いわゆる背に腹は代えがたしとの俗諺に恰当する事情の存するものなきに非ずやと疑えり。<陸奥宗光『同上書』 p.349>
 ドイツにとって「旧怨深き仏国」というのは言うまでもなく普仏戦争以来の対立を言っている。ドイツのビスマルク外交がフランスを敵視することを軸に展開されてきたことは周知のことであるが、すでにヴィルヘルム2世との対立によって1890年に辞任しており、ビスマルク時代は終わっていた。ビスマルク外交はフランスを孤立化するためにロシアとの同盟を最も重視してたから、それが続いていれば三国干渉はあり得なかっただろう。
なぜドイツは参加したのか では陸奥がにらんだ「欧州政略的な関係」とは何だったか。陸奥は、イタリア駐在大使から得た情報として次のように述べている。
(引用)独逸の豹変は実に露仏関係の熱度益々加わらんことを恐れて、躬自らその間に投じてこれを冷却せんと欲したるにあり。これむしろ自家の死活に関する事情に駆られてまた他顧するに遑なかりしに由るものなり。<陸奥宗光『同上書』 p.354>
 また駐英公使を通じイギリス外務省がドイツ駐英大使に三国干渉に加わった真意を問いただしたところ、 明言は避けたものの、欧州関係の政略からの判断であると述べ、同時に
(引用)「……独逸がこれに加盟したるは日本のために僥倖なり、何となれば、ドイツは露仏両国に説きて大いに彼らの要求を軽減せしめたることあればなりといい、かつ同大使は日本はともかくも遼東半島を一時占領するを以て満足し置くべし、而して一時の占領は将来何時も永遠の占領に返還することを得べきものなりといい、その幾多の先例を示し、もし日本が該半島を永遠占領することをさえ断念したる上は、その他なんらの条件にても日本が承諾し得べき処分に付ては、同大使は本使と共にこれを結了することに尽力すべき旨を本国政府へ申し立つるを得べし……」<陸奥宗光『同上書』 p.355-356>
と言ったという。ドイツは日本に遼東半島は一時占領だけで諦めろ、と言っているわけで陸奥宗光はそれは信用がおけないと考えたようだ。しかし、陸奥の時代が終わってから、遼東半島がたしかに日本による「永遠の占領」状態になったことを考えると、帝国主義国の何と身勝手な言い分であるかと感じる。  いずれにせよ、陸奥宗光が論じるように「三国干渉の由来は、右の如くその張本は露国たること勿論なれども、露国をしてかくまで急激にその猛勢を逞しくするに至らしめたるは、実に独逸の豹変に基因したり。」と受け止められた。
なぜ三国干渉を受け入れたか 大方の日本人が屈辱と捉えた三国干渉を、陸奥宗光が外交の首脳として即時受け入れを判断したのはなぜか。一つには、三国の要求を拒否して下関の講和が破談となり、戦争を継続することとなった場合、清だけでなく少なくともロシアとの開戦となり、それは当時の日本軍の実力をはるかに超えることになる。すでに陸軍は大陸に全戦力を移動させ、海軍は威海衛の戦いに全力を注力した後、依然として黄海にある。つまり、本土及び本土周辺はなんらの防備を持たない状態になっていた。
 さらに三国干渉を受け入れないとなれば、すでに調印されていた下関条約に対して、清は批准を拒むだろう。そうすれば、遼東半島を失うだけでなく、台湾・澎湖諸島の割譲、賠償金、その他の権益も宙に浮いてしまう。実を取るためには三国干渉を受け入れ、下関条約の批准成立を急ぐべきだ、と考えたのだった。なお、ロシアは朝鮮に隣接する遼東半島の還付にはこだわるが、台湾・澎湖諸島については異議をはさまないことは、事前の交渉で判っていた。
世界史の中の三国干渉 戦争で獲得した領土を、外国からの干渉によって返還した例は、外にもあったとして陸奥は1878年のサン=ステファノ条約の例をあげている。この時はロシア(スラヴ諸国)が露土戦争オスマン帝国から獲得した領土を、イギリスとオーストリアが干渉したため、ビスマルクが調停してベルリン会議が開催され、その結果としてベルリン条約が締結されて、ロシア及びブルガリアの領土が大幅に削減された。
陸奥宗光の自己評価 サン=ステファノ条約のような外交上の困難を処した世界史の先例に照らしても、三国干渉で遼東半島の還付に応じたのは間違いではなかった、と陸奥は言っているのだ。
(引用)要するに今回三国干渉の突来するや、まさに日清講和条約批准交換期日已に迫るの時にあり。而して政府は三国および清国に対するの問題を一時に処理せんため百万計画を尽くたる後、ついに乱麻を両断し彼此各々錯乱せしめざるの方策を取り、その清国に対しては戦勝の結果を全収すると同時に、露、独、仏三国の干渉をして再び東洋大局の治平を攪擾するに至らしめざりしものにして、畢竟我にありてはその進むべを得べき地に進みその止まらざるを得ざる所に止まりたるものなり。余は当時何人を以てこの局に当らしむるもまた決して他策なかりしを信ぜんと欲す。<陸奥宗光『同上書』 p.371>
 このように陸奥宗光は外交の責任者としての自分の判断は間違っていなかった、と主張したのだった。この判断は時機を得た現実的、実利的なものであり、従って陸奥宗光は優れた外交官であったという評価がなされているが、その欧州情勢の見通しの甘さ、全体戦略の不備などを指摘する否定的な評価もある。

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