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皇帝

中国の王朝の最高支配者。秦の始皇帝に始まる。歴代王朝に継承され、清朝の宣統帝の退位(1911年)まで2132年で終わった。

秦の始皇帝に始まる

 それまでの「」の上位であって全国土を統治する地位を示す新しい語句として始皇帝前221年に制定した。皇は「ひかりかがやく」、帝は天上にあって世界を支配するものの意味。すなわちこの地上においては絶対的な力をもつ存在とされた。またこのとき、皇帝だけが使うことの出来る言葉として、「朕」(私が自分を言うときに使う)、「制」(皇帝が定めたきまり)、「詔」(皇帝の言葉)などが定められた。また始皇帝は、天下統一を全土に知らしむために、前後5回にわたり全国巡幸を行い、各地で記念する石碑をつくっている。自らは「始皇帝」と称し、次に二世皇帝、三世皇帝・・・と子孫が皇帝を続けることを予定していたが、秦の皇帝は2代で終わりを告げるが、「皇帝」の称号は中国の各王朝に延々と引き継がれ、清朝の最後の皇帝である宣統帝(溥儀)まで続いた。
 → 漢の高祖  ローマ皇帝の項を参照。

「皇帝」と「天子」

 項羽との抗争(楚漢戦争)で勝利した劉邦は、前202年、新たに帝国を樹立して初代皇帝となり、その死後、高祖(廟号)と称されることになる。漢帝国はその行政制度はほとんど秦を継承したが、郡県制だけは全面的な継承をせず、それ以前の封建制の理念を部分的に復活させる手直しを行い、郡国制に改めた。それに伴って、「皇帝」の意味合いにも秦と漢とでは違いが生じた。
(引用)漢は皇帝という称号を踏襲したが、同時に封建制の理念を維持して、天子という中国の伝統的な称号をも復活させた。この性質が異なる二つの制度を併用したのは郡県制の中に封建制を取り込んだ郡国制と軌を一にするものだった。つまり漢の最高権力者は一面においては皇帝でありかつ他面においては天子になったのである。
 皇帝は天帝そのものを意味する絶対的な権力であり、それは地上の人々の支配によって成立するものであるのに対し、天子とは儒家が説く支配者の概念であり、その権力は天命が降ることで保証されるものだった。では漢においては皇帝と天子とがなぜ併存できたかといえば、それは両者の巧みな使い分けがされたからである。
 その点は玉璽(皇帝の地位と権威を象徴する印璽)にも反映されていた。「天子○璽」と「皇帝○璽」と刻印されたものがそれぞれ三つずつあり、前者は周辺諸国との文書や天地を祀る際に用い、後者は一般の行政に用いたものであり、両者の区別は明らかだった。法家に偏重した秦の皇帝制度を儒家の思想が加味したものに換骨奪胎させることで柔構造を備え、皇帝制度そのものの寿命を延ばすことになった。<山本英史『中国の歴史増補改訂版』2016 河出書房 p.61>

「諡号」・「廟号」・「元号」

 中国の皇帝(天子)に関して、同一人でも異なった名があり、また同じ名の皇帝が何人もいて判りにくく混乱してしまう。しかし、皇帝名には一定のルールと傾向があるので、それを理解しよう。まず、皇帝には諡号と廟号がある。そのどちらで呼ぶのが一般的か、というのには時代よる違いがある。また明・清では元号が皇帝名とされた。
  • 諡号(しごう)とは、生前の行跡により、死後におくられる名称である。生存中はその名称で呼ばれることはない(これは日本の天皇も同じ)。始皇帝も自ら称したというが、厳密には死後そう呼ぶように定めた。ややこしいのは、次の漢王朝以来、同じような諡号が用いられること。武帝や文帝はいくつもの王朝で存在する。そこで区別するために「漢の武帝」「梁の武帝」などのように王朝名を併記する。
  • 廟号(びょうごう)とは、高貴な人の死後にその人の尊像や位牌を礼拝するところ(いわば墓)に、やはり死後に贈られる称号。初代皇帝には高祖や太祖、太祖などの廟号が贈られることが多い。二代目以降には太宗、世宗などがよく見られる廟号である。
  • 諡号も廟号も皇帝の死後に贈られるものであるが、歴史上の記述では便宜上、在位中も用いる。当然、皇帝にも固有の姓と名があるが、中国の一般人と同じく、「名」(自分で名のる名前)と「字(あざな)」があり、しかも生前の名は「諱(いみな)」といって呼ぶことは忌みはばかれる。天子の名も諱であり記すことは避けられる(一般の人が名に付けることもはばかられる)。
  • 例えば、漢の武帝の場合は、姓は劉、諱は徹、つまり劉徹。諡号は正式には孝武皇帝であるが通常略して武帝と呼ぶ(漢代は儒教が重んじられたので皇帝の諡号には「孝」の字が冠せられていた)。廟号は世宗。
  • 漢代の皇帝は略称の諡号で呼ばれることがほとんどで、廟号はあるが使われない。廟号で呼ばれることが一般化するのは唐代以降のことで、初代が高祖、二代目からは宗がつく。二代目の李世民は諡号は文皇だが、廟号の太宗で呼ばれている。
  • 諡号・廟号が皇帝の死後に贈られるとすれば、王朝の最後で次の皇帝がいないときはどうなったか。そのばあいは次の王朝から贈られる。そのためたいてい最後の皇帝には哀帝(唐など)のような諡号で呼ばれる。また、帝位につかなかった者に諡号・廟号が贈られた場合もある。それは三国の魏の曹操で、生前、魏王にはなったものの帝を称してはいなかったが、子の曹丕が即位したとき父に武帝の諡号を贈った。
  • 元朝の皇帝は、それぞれモンゴル人としての皇帝名を持つが、一般に廟号で呼ばれる。フビライは廟号が世祖だったが、元朝が成立したときモンゴル帝国の大ハーンに、チンギス=ハンには太祖、オゴデイには太宗というふうに廟号を追贈している。
  • 明代になると一世一元の制が定められ、皇帝の称号と元号(年代)を一致させるようになった。実際にはそれ以前の王朝と同じように諡号と廟号もあるが、一般の歴史書では元号で皇帝を呼んでいる。例えば、洪武帝は、姓は朱、諱は元璋、元号が洪武、諡号が高帝、廟号が太祖である。
  • 清朝も一世一元制であるので、皇帝は元号で呼ばれる。それは王朝名が大金だった時期も同じで、初代のヌルハチは、姓はアイシンギョロ(愛新覚羅)、諱はヌルハチ(弩爾哈斉)、諡号は武帝、廟号は太祖という。しかし一般にはヌルハチとだけ言われる。最後の皇帝宣統帝は諱が溥儀であるが、生存中に退位し皇帝制度が終わったので諡号も廟号も贈られていない。
 以上まとめると、
  1. 秦漢から隋までは諡号を使う。武帝や文帝など、同じ諡号の場合は国号を冠して区別する。例外的に漢の劉邦は廟号の高祖で呼ぶ。
  2. 唐から元までは廟号を使う。この場合も、太祖、太宗など同じ場合は国号を冠して区別する。
  3. 明・清では元号(年号)を使う。洪武、永楽、康煕、乾隆などはみな年号である。
  4. <山口修『中国史55話』1996 山川出版社/王敏編著『中国歴代王朝秘史事典』1999 河出書房新社などによる>