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豪族

漢から後漢にかけて農民層の分解によって生まれた富農層が成長して豪族となった。後漢は豪族の連合体政権としての性格が強い。

 の時代に、土地の開発が進み、貨幣経済も発展したが、その過程で貧富の差は拡大し、後漢の段階になると、土地を集積した大土地所有者である富裕な土豪が有力者として成長してきた。このような存在を豪族と言っている。彼らは漢の武帝時代に始まる郷挙里選を通じて中央の官吏に登用され、さらに地位を利用して勢力を強め、土地と奴隷を独占的に所有するようになった。漢王朝では、限田法を制定して豪族の大土地所有を制限しようとしたが失敗し、後漢時代を通じて豪族は成長していく。後漢はそのような豪族による連合政権という一面があった。
 しかし、豪族は次第に単なる地方の有力者ではなく、中央の皇帝政治を支える官僚としての地位を世襲的に独占するようになり、門閥貴族化していく。そのような変化は三国時代の魏の九品中正などの人材登用制度を通じて、魏晋南北朝時代に進んだと考えられている。 → 貴族

豪族と貴族

 豪族とは、世界史上では単なる有力者といった普通名詞ではなく、限定的な意味を持つ歴史用語なので注意しよう。特に中国史では漢代に現れ、後漢時代から魏晋南北朝時代に成長した、農村を基盤とした富裕者層をいう。彼らは皇帝権力を支えていたが、身分的な地位を世襲したわけではなく、「貴族」の概念との違いに注意する。豪族は主として地域の郷村共同体を基盤として在地に力を持つ有力農民であるが、貴族は国家機構の中で上級支配者層としての地位を世襲する門閥貴族のことである。
 中国史では後漢時代の豪族社会から、魏晋南北朝を経て隋唐時代に貴族政社会に移行するという見解が有力であるが、それについてもさまざまな学説があり、その説明も一定では無い。ここでは一つの見解として、川勝義雄氏の豪族論を見ておこう。

豪族の説明の例

豪族の形成 漢代の郷村共同体はあまり格差の無い自家経営農民たちが、その中の経験豊かな年長者たる「父老」を中心に集住していた。漢の統一帝国の長い治世のもとに農耕技術が進歩し、潅漑施設も整えられるなど郷村社会における農業生産力が高まってゆくにつれて、貧農と富農の分化がおこった。上昇した生産力によって得られた富はますます富農に吸収されていった。こうして出てくる富農の強大化したものが「豪族」にほかならない。
豪族の形態 豪族は多くの分家を有し、その中の最も豊かな家を中心に結束し、貧農に高利貸しを行ってその土地を質地としてとりあげたり、未開地を開墾したりしながら大土地所有を拡大し、流れ者や土地をなくした者を小作人として耕作させた。またその支配力を強めるため「客」と称して腕っぷしの強い者を輩下に置いた。豪族とは、このように同族の相互結合を中心とし、とりまく「客」の力を糾合した集団である。
郷村共同体の崩壊 豪族の伸張は漢代の郷村共同体秩序と矛盾するものであり、豪族の郷村支配が進むことは郷村共同体を解体させることになった。郷村のヨコの関係よりも、力をつうじてのタテの関係が優先されるようになった。郷村の自治、自衛体制も村民の共同ではなく、邸内に「高楼」をつくった豪族の手に委ねられていった。
豪族の領主化と共同体の抵抗 このように郷村内で成長した豪族は、農民層に対する支配力を強め、「豪族の領主化」の傾向が強まった。しかし、一部に豪族が武人として領主化した例もあるが、その傾向は華北全体には広がらなかった。豪族がそのまま領主化しなかった理由は、農業生産力の向上そのものが郷村共同体を構成していた自営農民の生活基盤をも強める作用もあったからだと考えられる。後漢中期以降、強い自立性を持った自営農も成長しており、かれらは郷村共同体秩序のイデオロギーとして儒学を信奉する知識人でもあった。彼ら共同体理念を自覚する農民層が、豪族の領主化に抵抗するという状況が生まれた。
後漢政権と豪族
(引用)後漢の政権は、以上に述べたような漢代社会の基本的な二つの相反する傾向が、かなり進行してきた状況の中から生み出され、その間の矛盾に苦しみながら、ついに最終的解決を見いだせないままに崩壊してゆかざるをえなかった。そしてその過程の中から、いわゆる「貴族政社会」なるものがうみだされていく。<川勝義雄『魏晋南北朝時代』2003 講談社学術文庫 p.96-103>
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川勝義雄
『魏晋南北朝』
2003 講談社学術文庫版