北匈奴
48年、匈奴が分裂した後、北西に移動した民族。後漢と南匈奴に攻められて滅亡した。その一部が西方に移動し、フン族につながるともいわれている。
匈奴の分裂によって生まれた東匈奴が弱体化し、後漢との和親を継続しようとたグループに対し、48年に独立を志向して蒲奴(ほど)単于を擁した匈奴の勢力を北匈奴という。
南匈奴が中国王朝との関係を深めていったのに対して、モンゴル高原に残ったが、そのころから有力になった東方の烏桓(うがん。烏丸とも書く)、鮮卑、南方の丁零などの遊牧民が南匈奴とともに北匈奴を攻撃し、87年には単于が鮮卑に殺害され、91年にはその本拠も奪われて、匈奴帝国は完全に姿を消した。その後、モンゴル高原の支配権は鮮卑に移り、北匈奴の遺族もそれに同化していったと考えられるが、その一部はさらに西進し、フン人につながったとも考えられている。
南匈奴が中国王朝との関係を深めていったのに対して、モンゴル高原に残ったが、そのころから有力になった東方の烏桓(うがん。烏丸とも書く)、鮮卑、南方の丁零などの遊牧民が南匈奴とともに北匈奴を攻撃し、87年には単于が鮮卑に殺害され、91年にはその本拠も奪われて、匈奴帝国は完全に姿を消した。その後、モンゴル高原の支配権は鮮卑に移り、北匈奴の遺族もそれに同化していったと考えられるが、その一部はさらに西進し、フン人につながったとも考えられている。
匈奴はフン族か?
匈奴が分裂し、匈奴帝国が解体した後、北匈奴の一部がさらに西進してフン族といわれるようになり、アッティラ大王に率いられてヨーロッパに侵入、さらにゲルマン民族の大移動を引き起こしたというのが“魅力ある”民族移動の物語として流布されているが、これは古い未解決の問題であるようだ。手元の書物からいくつか拾ってみよう。モンゴリアで瓦解した匈奴が、西洋史で活躍するフン族そのものであるかどうかは、今なお解決されざる大問題である。ただ匈奴という名称が中央アジアから西アジアに鳴り響いたために、それが広く北狄の総称として使われるに至り、匈奴そのものでないものも、匈奴(フンヌ)という名前で歴史に登場したということだけはほぼ確かである。<『北アジア史』江上波夫編 世界各国史旧版 山川出版社 1956 p.32>
北匈奴はますます西進し、2世紀のなかごろに天山北方にいたとする『後漢書』の記事を最後に、中国の記録からは姿を消す。北匈奴の一部がさらに西進してヨーロッパにあらわれ、フンと呼ばれるようになったとする、いわゆる匈奴=フン同族説は、いまだに決着のついていない世界史上の大問題として残されている。<林俊雄『遊牧国家の誕生』吉川弘文館 世界史リブレット98 2009 p.86>ただ、次のように断定している概説書もある。
また分裂した匈奴の一部は、西方への移動の途上、フィン族、スラヴ族などの諸民族と融合して新たな融合民族ヴォルガ・フン族を形成し、やがて4世紀には南ロシアにその姿を現し、ついで5世紀にはアッティラに率いられてヨーロッパに侵入して、ヨーロッパ史の展開にさまざまな影響を及ぼした。<間野英二『内陸アジア』朝日新聞社 地域からの世界史6 1992 p.86>2007年に初版が刊行され、2017年に講談社学術文庫として再刊された『興亡の世界史』シリーズの1冊、林俊雄氏の『スキタイと匈奴―遊牧の文明』では、文献(4世紀の歴史家アンミアヌスの記録など)に残るフン人の記述と最新の考古学上の知見を突き合わせて、
戦法や生活様式を見ると、馬上で弓射を特異とし、定住地と固定家屋を持たず、農耕を行わないという点は、スキタイ・匈奴と共通する。全体としてみると、アジア系の騎馬遊牧民らしいことはわかるが、フンを匈奴と断定するほどの証拠はない。<林俊雄『スキタイと匈奴―遊牧の文明』興亡の世界史 2007初刊、講談社学術文庫 2017 p.338>と言っている。フン=匈奴説は断定できるほどの証拠はないとしても、また完全に否定することもできない、かなりの高い確率で正しいと言えそうだ。少なくともフンを、匈奴などと同じ、ユーラシアの草原地帯に源郷を持つ騎馬遊牧民であることは間違いない。