騎馬遊牧民
騎馬の技術に優れた遊牧民。特にユーラシア大陸内陸部で活動、農耕民と交易を行うだけでなく、しばしば襲撃した。匈奴、突厥、モンゴルなど大帝国を作り、世界史の中の重要な役割を担っている。
騎馬遊牧民の像
モンゴル高原のノイン=ウラ出土。
現在はノヨン=オールといわれる匈奴の王墓遺跡。
遊牧の発生
前5500年ごろから始まった気候の温暖化は、特に西アジアでは草原の乾燥化という現象を引き起こし、農耕を捨てて遊牧を選ぶ道を開いた考えられる。一部の集落が都市に発展すると、その周辺では麦の栽培が拡大し、羊は外に押しだされることになった。肥沃な三日月地帯からはずれた乾燥地はそれまで無人の荒野であったが、そこに遊牧民が進出することによって西アジア各地を結ぶ交易ルートも選択肢が増えることになった。車と騎馬の導入 草原地帯の遊牧化を促した要因は、気候の乾燥化、移動のさいに便利な車と、騎馬の導入であった。車は前3500年ごろ、おそらくメソポタミアで発明されたらしい(車の起源に関しては、コロ説、ソリ説、その折衷説など、いろいろある)。車輪は円盤状で重く、牛ならば牽けるが、かりにこのころ馬が家畜化されていたとしても、馬が牽くには適していない車両であった。車は200~300年のうちに、ヨーロッパと草原地帯西部に広まったらしい。
青銅器文化 前2500年ごろから気候は徐々に乾燥化し、草原地帯は農耕より牧畜に適した風土になったが地域的な差が大きかったらしい。このころすでに銅の冶金が伝わっていたが、まだ実用的な道具が作られるほどではなかった。前2000年をすこし過ぎたころから、草原地帯でも銅よりかたい青銅がつくられるようになった。しかしこのころはまだ、定住の方が主流であった。
ハミとハミ留め具の発明
ハミを装着した現代の競走馬
騎馬遊牧民の登場
(引用)草原地帯に騎馬が普及したのはカラスク文化の後期(前10~前8世紀)と思われる。ここにようやく騎馬遊牧民が誕生することとなる。馬に乗って家畜を追い、季節によって牧地を移動することが可能になり、遊牧民の行動範囲はいっきょに広まった。
騎乗は、遊牧民に移動の便利さをもたらしただけではなかった。性能の低い古代の車と違って、馬は急発進、急停止、急旋回ができるという利点がある。そしてなによりも馬は速い。19世紀前半に蒸気機関車が実用化されるまで、馬は最も速い乗物であった。この機動性とスピードは、集団となったとき、とりわけ軍事面で効果を発揮することになった。強力な騎馬軍団を背景に、南方の定住農耕地帯を脅かす騎馬遊牧民集団の登場である。<林俊雄『遊牧国家の誕生』2009 世界史リブレットp.15>
硬式鞍と鐙(あぶみ)の発明
騎乗技術を容易にした発明に、硬式鞍と鐙がある。このいずれも中国において発明された。遊牧民の使っていた鞍は、軟式鞍(座布団のような柔らかい鞍)で、始皇帝の兵馬俑の鞍もすべて軟式鞍である。ところが中国で3世紀ごろ木製の硬式鞍が用いられるようになった。鞍の前後に板を立てて乗ったときに安定するようにし、同時に乗りやすいように鞍から革紐を垂らして鐙をつけ、それに足をかけて乗るようになった。当初は片側だけだったが、やがて便利なので反対側にもつけられるようになり、今のような硬い鞍と鐙ができた。これが4世紀の頃と思われ、日本の古墳から出土する埴輪馬は皆この形である。ところが、草原の遊牧民は子どもの頃から裸馬に飛び乗って馬を操縦していたので、硬い鞍と鐙は必要でなく、使われなかった。それでも5世紀ごろから鞍の後板(後輪)を後ろに反らせるなどの工夫が施されてから、遊牧民も硬い鞍を使うようになった。鐙も使われなかったが、鐙で踏ん張って腰を浮かして弓を射たり、槍や刀を使う方がよいということが分かって、6世紀ごろに草原地帯に広がった。さらに6世紀後半におそらくアヴァール人によってヨーロッパに持ち込まれ、アヴァール人と戦ったフランク人が硬式鞍と鐙を使うようになった。<林俊雄『スキタイと匈奴―遊牧の文明』興亡の世界史 2007初刊 講談社学術文庫 2017 p.341-343>
硬い鞍と鐙が中国で発明され、遊牧民に逆流したというのは興味深い。
遊牧民の定住地帯への移動
9~10世紀、内陸アジアでは遊牧民が定住地帯に移動して定住民化した。それはモンゴル人の東トルキスタンへの定住、カルルク人のカラ=ハン朝の建国、セルジューク族の定住化などの動きであり、それに伴って中央アジアのトルコ化(トルキスタンの成立)が進み、並行してイスラーム化も進んだ。一方、中国では契丹の遼を初めとして金、元、清という騎馬民族系の征服王朝が生まれていく。これらは、かつての匈奴帝国や突厥帝国が草原を本拠にして農耕地帯を支配したのに比べ、農耕地帯に移住して定住するようになったことが異なる。遊牧世界の大きな変化であるが、その変化が何故起こったかはまだよく分かっていないが、ウイグル人のマニ教や、セルジューク人のイスラーム教のような都市的な宗教を受容したこととの関係を指摘する説もある。<間野英二ら『地域からの世界史6 内陸アジア』1992 p.57-60>騎馬遊牧民の時代の終わり
ユーラシア内陸での騎馬遊牧民の活動は、13世紀のモンゴル帝国の成立をピークとして、16世紀頃まで続く。しかし騎馬遊牧民の活動は15世紀末に始まる「地理上の発見」によって交易ルートが海上に移動したこと、さらに16世紀に戦闘形態が騎馬戦術から鉄砲や大砲などの火器を利用されるようになったことによって、衰える。騎馬遊牧民の「陸上交易」と「騎馬戦術」という機能の価値を低下させたためである。かつてマムルークとして知られた騎馬遊牧民の代表であるトルコ系民族の後裔であるオスマン帝国が、従来の騎士に代わって、鉄砲を持った歩兵であるイエニチェリを新戦力にするという転換を行ったのも戦闘形態の変化に対応したことであった。またモンゴル高原では18世紀に最後の遊牧国家ジュンガルが清朝によって滅ぼされ、19世紀後半にロシアの南下政策によって中央アジアの三ハン国や遊牧民トルクメン人がロシアの支配下に入ったことが、騎馬遊牧民の時代が終わったことを示している。