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鳩摩羅什/クマーラジーヴァ

西域の亀茲で生まれ父はインド人。大乗仏教を学び、高僧として知られていた。五胡十六国の争乱期の5世紀初めに、長安で多くの仏典を翻訳しで、中国仏教の発展の基礎を築いた。

 くまらじゅう、とよむ。4世紀の末に、シルクロードを通って西域から中国に渡り、仏教を伝えた渡来僧。その名クマーラジーヴァを漢訳して鳩摩羅什と表記する。タリム盆地の小国亀茲(クチャ)国にうまれた。父はインド人、母は亀茲国王の妹だった。7歳で出家し、9歳でインドに渡り仏教を学び、大乗仏教を修めた傑僧として知られていた。

五胡十六国の争乱に翻弄される

 五胡の一つ氐の建国した前秦苻堅は、将軍呂光を派遣して西域諸国を平定しようとしたが、亀茲を占領したとき、鳩摩羅什の高名を聞き、長安に連行するよう命じた。384年、呂光は鳩摩羅什を伴い敦煌まで戻ったが、そのときすでに苻堅は淝水の戦いで大敗し、前秦も崩壊寸前になっていた。そこで呂光は涼州にとどまり後涼国を建てた。鳩摩羅什もそのまま17年間、涼州に幽閉される形で留まった。

長安で仏典を翻訳

 羌人の建てた後秦の王の姚興(ようきょう)は鳩摩羅什の高名を知っていたので、後涼を攻めて滅ぼし、401年に鳩摩羅什を長安に国師の礼をもって迎えた。こうして鳩摩羅什は、五胡十六国時代の前秦・後涼・後秦という華北の王朝が交替する中で翻弄され、ようやく長安で仏典の漢訳と説教につとめることとなった。鳩摩羅什の翻訳した経典は『法華経』『阿弥陀経』『維摩経』などの大乗仏典をはじめ、ナーガールジュナ(竜樹)の『中論』などの多数にのぼり、これによって中国仏教の基礎が築かれたということができる。
 鳩摩羅什の没年ははっきりしないが、おそらく409~413年の間と思われ、現在、西安の郊外の草堂寺に唐代に建てられた高さ2.33m、八面十三層の墓塔がある。また涼州(現在の甘粛省武威市)にも唐代に作られたという八面十二層の舎利塔がある。

Episode 語学の大天才-鳩摩羅什

 インドでサンスクリット語を修めた鳩摩羅什は亀茲に戻り、さらに西域諸国のことばをマスターした。しかし亀茲国が五胡の一つ前秦の苻堅によって征服され、鳩摩羅什は涼州に移った。そこで17年間幽閉されたが、その間に漢語をマスターしたらしい。サンスクリット、西域の諸語、漢語に通じ、語学の天才として知られるようになった。
 401年、後秦王によって長安に迎えられてから仏教経典の翻訳を開始、『法華経』『阿弥陀経』などの経典や大乗仏教の理論書の多数を漢訳した。それ以前にも経典の漢訳は行われていたが、鳩摩羅什の訳は正確・流麗であったので中国仏教にとって画期的な事業であった。もっとも僧侶としては女性スキャンダルなどもあり、自らの経典翻訳を「臭泥の中に蓮花を生じるが如し」と晩年に言っているそうだ。<鎌田茂雄『仏教の来た道』1995 講談社学術文庫 p.32-36>
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鎌田茂雄
『仏教の来た道』
講談社学術文庫 1995