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梁/侯景の乱

中国の南北朝時代の南朝の3つめの王朝(502~557)。武帝のもとで仏教文化・南朝貴族文化が栄えた。しかし、548年に侯景の乱が起こり、北朝の圧迫もあって次第に弱体化し、南朝最後の王朝陳に代わられた。

 502年、斉の皇帝の一族であった蕭衍(しょうえん)が、斉に代わって梁王朝をひらいた。この梁の武帝の統治は約50年に及び、南朝でもっとも栄えた時代と言われる。皇太子の昭明太子は文人としても有名で文選を編纂した人物だが早世した。

武帝の仏教保護

 また梁の武帝は仏教をあつく信仰し、その保護のもとで都の建康には多くの寺院が建造された。また建康の商業はさらに繁栄したため、貨幣が不足し、武帝は銅銭に代わって鉄銭を発行した。しかし、548年に始まる北朝からの降将の侯景が起こした反乱(侯景の乱)で建康は荒廃し、557年、部将の陳覇先に帝位を奪われ、に交代する。

侯景の乱

 侯景こうけいはもとは北朝の北魏末の動乱に乗じて、534年に東魏を立てた高歓の配下であった。軍事にすぐれており高歓に重用され、536年以降、十万の軍勢を要して河南に駐屯し、西方の西魏、南方の梁と対峙していた。547年、高歓が死去して息子高澄が跡を継ぐと、侯景は王権を簒奪しようと反乱に踏み切った。しかし、東魏軍に押されてもくろみは失敗、焦った侯景は梁の武帝に自らの支配する河南13州を割譲することを条件に帰順を申し入れた。梁では重臣の多くは反逆者を受け入れるべきではないという意見だったが、武帝は領土拡張の好機とみて侯景の帰順を受け入れた。しかし結果的にこれが武帝の致命傷となる。
 547年8月、武帝は河南の侯景を先鋒として大軍勢を派遣、東魏制圧に乗り出した。ところがこの軍事行動は東魏軍に大敗して失敗、侯景はまたも敗れて南方に逃れた。このとき捕虜となった総司令官蕭淵明が翌年、武帝に東魏との和睦の手紙を送ってくると、自分の立場が危うくなることを恐れた侯景は548年8月、武帝への反乱を開始した。侯景の軍勢はわずか千にすぎなかったが、梁の正規軍はすでに弱体化しており、反乱軍を阻止する力が無く、いつのまにか10万の大軍となった侯景軍は都建康を包囲し、武帝に降伏を迫った。549年3月、ついに建康は陥落、88歳の武帝は監禁状態となり、2ヶ月後にほぼ餓死状態で死去した。
 侯景はいったん武帝の三男を簡文帝として即位させたのち、まもなく廃位して簡文帝の兄の昭明太子の孫に当たる人物を即位させた。そのうえで551年11月、自ら帝位に就いた(国号は漢)が、その支配区域は都建康の周辺に限られ、武帝の七男の湘東王蕭繹しょうえきが残っており、552年4月、反撃を開始した。侯景は防ぎきれないと見て建康を放棄して逃走したが、途中で部下に寝首を掻かれて落命した。
 この侯景の乱はいたずらに江南を戦乱の渦に巻き込んで南朝貴族文化に致命的な打撃を与えて終わり、梁は蕭繹が元帝として即位し、復活した。しかし元帝は北方の東魏や西魏の攻撃を恐れて建康には戻らず、根拠地の江陵(湖南省沙市)に定めて居座った。その恐れは現実となり、554年秋に西魏軍が大軍をもって南下し、元帝は殺害され役人たちは住民共々西魏の首都長安に連行された。このときの捕虜の中に、後の唐の書の大家顔真卿の祖父に当たり、『顔氏家訓』を書いた顔之推がいた。この苦難の中から、子孫に動乱の時代でも生き抜くことができるように書いたのが『顔氏家訓』であった。

梁の滅亡と陳の建国

 梁の江陵政権を倒した西魏は、その地に蕭一族の一人を建てて「後梁」という傀儡政権を建てた。一方、梁の都建康には部将の一人王僧弁が蕭氏の一人を擁立していたが、こちらには北朝の東魏に代わって成立した新王朝北斉が攻勢を強め、以前から捕虜としていた蕭淵明を梁皇帝とすることを要求、王僧弁がそれに従って555年に即位させ、こちらには北斉の傀儡政権ができた。
 しかし、建康では侯景の乱討伐に功績のあった将軍陳覇先が、北斉のいいなりの王僧弁に反発してクーデタを行い、王僧弁を殺害、蕭淵明を退位させ、北斉の干渉軍を撃退して実権を強化し、557年に遂に自ら帝位についてを建て武帝(557~559)となった。これが南朝最後の王朝となった。

顔之推と『顔氏家訓』

 この間、西魏の長安で捕虜生活を送っていた顔之推は、脱走を決行して北斉の鄴に逃れ、そこから建康に戻ることを目指したが、557年の陳朝の成立でできなくなり、その後20年にわたり、北斉政権に仕えることとなる。やがて西魏では実権を握った宇文泰が北周を建国、みるみる国力を強化して577年に北斉を滅ぼし、北魏滅亡以来、四十数年ぶりに北中国を統一する。さらに578年、北周の武帝が死去、3年後の581年に北周の外戚楊堅が即位して隋の文帝となる。顔之推は北斉滅亡後は北周、さらに隋にも仕え、その間の経緯をくわしく『顔氏家訓』に書き残している。<以上、井波律子『中国文章家列伝』2000 岩波新書 p.70-99 などにより構成>
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書籍案内

吉川忠夫
『侯景の乱始末記』
2019 志学社選書
初刊は1974中公新書

井波律子
『中国文章家列伝』
2000 岩波新書