蕭衍/武帝(梁)
6世紀前半、南北朝時代の中国の南朝・梁の皇帝。仏教保護と文化興隆で有名であったが、548年の侯景の乱により、ほぼ一代で滅んだ。
蕭衍(しょうえん)は中国の南北朝、南朝の梁の初代皇帝で謚が武帝。在位502年~549年。南朝の中では最も栄えた時代の皇帝で、特に後半は仏教の保護で有名であった。しかし財政破綻から国政が乱れ、549年に侯景の乱のために都建康を攻められ、城中で餓死した。
南朝の斉に仕える蕭衍(しょうえん)は一介の武人であるが若くして学問にもすぐれ、文人としても知られていた。501年、斉の皇帝が暴君化したことで兵を挙げ、翌502年に都建康を陥れて梁を建国、即位した。
まず、九品中正法(九品官人法)に手直しを加え、従来の官品表を整理して新たに官職を18班に再区分した。これには九品中正制が貴族階級の固定化につながっていたのを改め、胡人でも才能のある人物に官を割り当てようとする狙いがあった。
科挙につながる試験制度 また官吏となるための教養を身につけるために、大いに学館を興した。五経博士を経ごとにひとりずつ任命し、おのおの一館を担当させ、数百人の学生を収容し、射策といわれた一種の試験を実施し、学力優秀なものを官に任じた。任官には従来通りの家格が勘案されたので、後世の科挙のように個人本位とはなりきっていないが、無条件に家格だけで任用しない点は大きな新保といえ、科挙の前身となった。<宮崎市定『大唐帝国』中公文庫 p.249>
南朝の梁が安定した統治が行えた背景は、北朝の北魏が分裂し、東魏と西魏が争っていて南朝に介入できなかったからであった。
千里鶯鳴いて緑紅(くれない)に映ず/水村山郭酒旗の風/南朝四百八十寺/多少の楼台煙雨の中
四百八十寺(しひゃくはっしんじ)は実際の数では無かろうが多くの仏寺があったことは確かで、その楼台が春雨の中に浮かんでいる様子をうたったものだ。江南の仏教が盛んであった様子がしのばれる。
梁の武帝の皇子の一人、蕭繹(しょうえき)が武人の陳覇先の力を借りて侯景の乱を鎮定、江陵で即位して元帝を称したが、実権は陳覇先に移り、557年に陳が成立する。
南朝の斉に仕える蕭衍(しょうえん)は一介の武人であるが若くして学問にもすぐれ、文人としても知られていた。501年、斉の皇帝が暴君化したことで兵を挙げ、翌502年に都建康を陥れて梁を建国、即位した。
貴族制度を再編
梁の武帝は貴族を優遇し、法律の制定や儒学の奨励、学問の保護などを行い、その48年に及ぶ政権の安定がもたらされ、中国の皇帝の中でも名声が高い一人である。まず、九品中正法(九品官人法)に手直しを加え、従来の官品表を整理して新たに官職を18班に再区分した。これには九品中正制が貴族階級の固定化につながっていたのを改め、胡人でも才能のある人物に官を割り当てようとする狙いがあった。
科挙につながる試験制度 また官吏となるための教養を身につけるために、大いに学館を興した。五経博士を経ごとにひとりずつ任命し、おのおの一館を担当させ、数百人の学生を収容し、射策といわれた一種の試験を実施し、学力優秀なものを官に任じた。任官には従来通りの家格が勘案されたので、後世の科挙のように個人本位とはなりきっていないが、無条件に家格だけで任用しない点は大きな新保といえ、科挙の前身となった。<宮崎市定『大唐帝国』中公文庫 p.249>
六朝文化の開花
梁の武帝の統治のもとで、六朝文化といわれる貴族文化が頂点に達した。『文選』を編集したことで知られる昭明太子は、武帝の皇太子であった。南朝の梁が安定した統治が行えた背景は、北朝の北魏が分裂し、東魏と西魏が争っていて南朝に介入できなかったからであった。
武帝の仏教保護
特にその晩年は深く仏教を信仰し、戒律を守り、自ら「三宝の奴」(仏法僧に帰依する意味)と称した。南朝の仏教はこの時代に最も栄え、都建康には700もの寺院があったという。朝鮮の百済は梁に使者を送り、仏像や経典を求めた。朝鮮の仏教は中国の江南の仏教を移植したものといえる。日本に百済から仏教が伝えられたという538年(一説に552年)も中国南朝では梁の時代である。聖徳太子は憲法十七条で「篤く三宝を敬え」と言い、聖武天皇も自らを「三宝の奴」と称したのはいずれも梁の武帝の影響である。また、伝承では武帝の時代の520年に、インドから広州に渡った達磨を南京に迎え、問答をしたという。達磨はのちに少林寺に入って坐禅の修行を重ね、中国の禅宗の開祖となる。Episode 南朝四百八十寺
唐の杜牧(9世紀)に次のような有名な詩がある。千里鶯鳴いて緑紅(くれない)に映ず/水村山郭酒旗の風/南朝四百八十寺/多少の楼台煙雨の中
四百八十寺(しひゃくはっしんじ)は実際の数では無かろうが多くの仏寺があったことは確かで、その楼台が春雨の中に浮かんでいる様子をうたったものだ。江南の仏教が盛んであった様子がしのばれる。
侯景の乱で憤死
しかしその仏教保護のため、莫大な出費がかさみ、その負担が農民に転嫁されたため、武帝の晩年の統治は不安定なものになっていった。武帝は失政を外征で回復しようと、北朝から投降した武将の侯景を信任して、北伐の軍を起こした。しかし侯景は淮河流域で東魏の大軍に敗れると、態度を急変させて武帝に反乱を起こし、548年、侯景の乱は都建康に迫った。梁では武帝の後継者をめぐって争いが起きており、泰平の世に慣れた文弱な貴族たちは侯景の軍を防ぐことができず、549年、都城を包囲された武帝は餓死してしまった。侯景はさらに江南地方を略奪して廻り、この侯景の乱によって、建康と江南の繁栄は失われてしまった。梁の武帝の皇子の一人、蕭繹(しょうえき)が武人の陳覇先の力を借りて侯景の乱を鎮定、江陵で即位して元帝を称したが、実権は陳覇先に移り、557年に陳が成立する。