建業/建康
建業は孫権によって建設された呉の都。東晋の都となり建康と改称され、その後の南朝諸王朝の都となる。現在の南京で江南の中心都市。
建業は長江下流の江南地方にあり、湿地の中にある丘の上に築かれ、戦国時代には金陵と言われていた。秦の時代に周りの低湿地にクリーク(水路)を開いて耕地とし、豊穣な平野に変身した。後漢末にその近くの杭州の南方の土豪であった孫堅が次第に有力となり、その子孫権が、212年にこの地を建業として拠点とした。
呉は、280年に晋(西晋)によって滅ぼされ、晋は洛陽を都としたので、建業は都の地位ではなくなった。ところがその西晋が311年の永嘉の乱で都を匈奴に占領されると、王朝の司馬氏一族の司馬睿が華北から建業に乗りこみ、拠点とした。
建業から建康に改称 317年に晋(西晋)が滅んだ後、司馬睿はこの地で立ち、晋を再興した(これを東晋といっている)。このとき、この地を都としたが、西晋の最後の皇帝となった愍帝の諱が業であったのでその字を避け、建康と改称した。
呉の都から晋の都へ
こうして建業は三国時代には222年に呉が建国されて、229年に孫権が皇帝となったことで、正式に都となった。呉は、280年に晋(西晋)によって滅ぼされ、晋は洛陽を都としたので、建業は都の地位ではなくなった。ところがその西晋が311年の永嘉の乱で都を匈奴に占領されると、王朝の司馬氏一族の司馬睿が華北から建業に乗りこみ、拠点とした。
建業から建康に改称 317年に晋(西晋)が滅んだ後、司馬睿はこの地で立ち、晋を再興した(これを東晋といっている)。このとき、この地を都としたが、西晋の最後の皇帝となった愍帝の諱が業であったのでその字を避け、建康と改称した。
東晋・南朝の都、建康
三国時代の呉の都であった建業に入った司馬氏が建康と改名して東晋の都とした。次の宋→斉→梁→陳と続く南朝の都として続き、漢人の貴族文化である六朝文化がこの地で展開された。六朝文化の中心
梁の武帝は仏教を保護し、その都としての建康も六朝文化といわれる貴族文化が繁栄したが、その末期に起こった侯景の乱で荒らされ、さらに次の陳が隋によって滅ぼされたときに都城は破壊され、地名も江寧と改めらた。隋は都を長安の近郊の大興城に遷したので、建康は地方の一小都市となってしまった。後に明の首都として復興し、南京と言われるようになる。