斉民要術/賈思勰
現存する中国最古の農業技術書。北魏~東魏の賈思勰の著作。漢以来の華北の畑作農法を完成させ、後世にも大きな影響を与えた。
『斉民要術(せいみんようじゅつ)』は6世紀初めの中国、魏晋南北朝時代の北朝の北魏で、賈思勰(かしきょう)が著した現存する中国最古の農業技術書。『斉民要術』とはいわは「農民必携、農民ハンドブック」の意味。山東省の乾地農法に適した作物の栽培、加工、販売方法などを記しており、古代中国の実用的農業書の集大成であり、後世にも印刷頒布され、大きな影響を与えた。賈思勰はその著者で、生没年代は不明だが、6世紀の北魏から東魏にかけて農学者として活躍した。 → 魏晋南北朝の文化
華北の畑作農法 華北の大地は黄土層におおわれている。黄土は土壌の粒子が細かく、雨水の浸透が早く、蒸発も早い。春の工作開始の前に、7月の雨期に降って天水を土中に保持するため、土壌の表層に堅く緊密な層をつくって水分の蒸発を防ぐ必要がある。これが華北畑作農業の要諦となる。『斉民要術』に見える北魏では、畜力にる反転犂で深耕し、土塊を破砕した後に表土鎮圧して堅くし、土中の保水を安定させている。またアワ・キビなど地力消耗作物とダイズなどの地力維持作物と組み合わせた輪作が普及し、施肥法の革新とともに地力維持機能が上昇し、華北の大農法が確立した。
『斉民要術』によれば、大農法の経営は、一具牛(二頭の牛と農具のセット)で1.5頃(頃は広さの単位で、7ヘクタール)の耕地、5名前後の労働力を基本単位としていた。不能層は10具牛、15頃(70ヘクタール)を経営し、家族労働で直営できないところは小作に出された。小作農は貧農で漢代以来の手労働用具を用いる小農法で耕作した。
華北畑作農法の古典的成立
6世紀の初頭、北魏の高陽太守(山東省益都県)は『斉民要術』10巻92編を著した。斉民とは一般平民、すなわち百姓を意味する。『斉民要術』は、庶民百姓の生活に必要な農耕殖産に関する技術を解説し、農業・養蚕にはじまり、酪農・養魚・醸造・食品加工・調理にまでおよび、さらに外国の珍しい物産をも紹介する。注目すべき内容は、華北乾地農法が古典的な成立を見たことである。<以下、渡辺信一郎『中華の成立』シリーズ中国の歴史① 2018 岩波新書 p.176~ による>華北の畑作農法 華北の大地は黄土層におおわれている。黄土は土壌の粒子が細かく、雨水の浸透が早く、蒸発も早い。春の工作開始の前に、7月の雨期に降って天水を土中に保持するため、土壌の表層に堅く緊密な層をつくって水分の蒸発を防ぐ必要がある。これが華北畑作農業の要諦となる。『斉民要術』に見える北魏では、畜力にる反転犂で深耕し、土塊を破砕した後に表土鎮圧して堅くし、土中の保水を安定させている。またアワ・キビなど地力消耗作物とダイズなどの地力維持作物と組み合わせた輪作が普及し、施肥法の革新とともに地力維持機能が上昇し、華北の大農法が確立した。
『斉民要術』によれば、大農法の経営は、一具牛(二頭の牛と農具のセット)で1.5頃(頃は広さの単位で、7ヘクタール)の耕地、5名前後の労働力を基本単位としていた。不能層は10具牛、15頃(70ヘクタール)を経営し、家族労働で直営できないところは小作に出された。小作農は貧農で漢代以来の手労働用具を用いる小農法で耕作した。
賈思勰

賈思勰
6世紀初め頃の中国の北魏~東魏の人。農業技術書『斉民要術』を著した。
賈思勰(かしきょう)は北魏と東魏の時期に生き、東魏の山東省の一地方の太守となった。彼は一生農業研究に全力を注ぎ、農業の諺(ことわざ)・民謡を含む大量の古代の文献資料を読み、経験豊かな農民を四方に訪問し、自らも農作物を栽培した。書中、農作物の生産過程について、非常に具体的に記述している。南北朝時代の北朝の各王朝から、唐、北宋に至るまで、政府は彼の著作『斉民要術』を印刷製本して地方官に発給し、これを用いて民間の農業生産を指導させた。<『入門中国の歴史 中国中学校歴史教科書』明石書店 p.278 図も>