唐の仏教
唐時代に仏教は鎮護国家仏教としての性格を強め隆盛期を迎え、また中国独自の発展を見せ、日本仏教にも強い影響を与えた。唐の国教となった道教とは対立し、唐末には厳しい弾圧を受けた。
仏教は後漢の1世紀ごろ中国に伝わり、南北朝時代をつうじて北朝、南朝それぞれの地域で独自の中国仏教として発展を遂げた。6世紀末に隋に次いで中国を統一した唐では、北朝以来の鎮護国家仏教を引き継ぎ、仏教は国家の保護とともにその統制を受けるようになった。7世紀には玄奘がインドから仏典をもたらし、また義浄もインドに渡り、ともに多数の経典をもたらし、新たな経典の翻訳も行われ隆盛期を迎えた。唐の都長安には、慈恩寺など、多数の仏教寺院が建造された。
しかし、唐王朝で国教とされたのは道教のほうであり、仏教はその下位に置かれるのが通常であった。ただし、外来の宗教である仏教は貴族・知識階級に受容され、朝廷内でしばしば道教と勢力を争うことがあった。唐の仏教は基本的には朝廷の保護のもと、国家統制が加えられて隆盛期を迎えたと言える。仏教に対しては、道教と並ぶもう一つの中国の在来思想である儒教の側からも厳しい批判がおこなわれている。最も有名な人に古文復興運動の旗手の一人であった韓愈がいる(下掲)。
実質的に唐王朝を確立させた太宗は、初代李淵が老子と同じ李氏であり、老子の子孫であるという説を採用したため、道教を国教と定めたが、仏教を排斥するようなことはなかった。仏教に対しては、唐以前の北魏の太武帝など道教側に立った時の政権によって弾圧されることがあり、この時代も含めて「三武一宗の法難」と総称されるが、そのなかで最も規模と影響力が大きかったのが、唐の末期に近い9世紀に起こった武宗の時の廃仏(会昌の廃仏)である。武宗は道教を熱心に信仰し、道士の建言によって仏教を弾圧したが、その背景には仏教寺院が荘園などの財産をもち、僧尼も課役を免除されていたのに対する、唐末の国家財政の財源を得るためという背景があった。その経緯は、当時長安で仏教を学んでいた日本僧円仁の残した『入唐求法巡礼行記』に詳しく記されている。
またこのときの宗教弾圧では、景教(ネストリウス派キリスト教)、ゾロアスター教(祆教)、摩尼教など外来の宗教がいずれも禁止されたために急速に衰え、ほぼ姿を消した。仏教は消滅することはなかったが、大きな打撃を受け、一時衰退し、復興後の中国仏教はもはや鎮護国家的な経典研究中心の仏教ではなく、禅宗と浄土宗という実践を重んじ民衆に根をおろした仏教が中心となっていく。
しかし、唐王朝で国教とされたのは道教のほうであり、仏教はその下位に置かれるのが通常であった。ただし、外来の宗教である仏教は貴族・知識階級に受容され、朝廷内でしばしば道教と勢力を争うことがあった。唐の仏教は基本的には朝廷の保護のもと、国家統制が加えられて隆盛期を迎えたと言える。仏教に対しては、道教と並ぶもう一つの中国の在来思想である儒教の側からも厳しい批判がおこなわれている。最も有名な人に古文復興運動の旗手の一人であった韓愈がいる(下掲)。
新しい宗派の成立
また唐代では経典の新訳が行われ、その研究が進んだ結果、どの経典を重視するかによっていくつもの宗派に分かれ、中国独自の発展をする宗派も現れた。まず7~8世紀初めの則天武后の時代には華厳宗が盛んになり、大仏の造営などが行われた。その他、戒律に基づく宗派が律宗、玄奘のもたらした『成唯識論』にもとづいて弟子の慈恩大師が大成したのが法相宗である。一方で中国独自に展開した天台宗や末法思想から始まった浄土宗も興った。このころインドでは仏教の衰退期にあたり、密教化していたが、その密教も中国に伝えられ、独自に発展し、8世紀には加持祈祷が宮廷の貴族に流行し、真言宗が成立した。さらに6世紀にインドの達磨が伝えた坐禅の修行を中心とした禅宗も、唐代の中国で独自に発展した。日本仏教への影響
唐の仏教統制策である官寺や僧官の制度は、日本の国分寺制度や戒壇制度の模範となった。日本の仏教は、南北朝時代の南朝、朝鮮半島の百済をつうじて伝えられたが、特に天平時代には唐の仏教を遣唐使に伴って派遣された僧侶が直接学んで日本に移植し、鎮護国家仏教として定着させた。唐招提寺の鑑真の来朝、東大寺大仏建立など、当時の唐の仏教と密接な関係があった。さらに唐で独自に発展した宗派である天台宗、密教(真言宗)、禅宗などは平安時代から鎌倉時代にかけて日本に伝えられ、日本仏教が形成された。弾圧と変化
仏教は唐代では主として貴族に信仰される宗教であり、民間には道教が盛んであった。唐王朝のもとで仏教と道教は皇帝と朝廷の支持をめぐって論争を繰り返し、たびたび対立した。実質的に唐王朝を確立させた太宗は、初代李淵が老子と同じ李氏であり、老子の子孫であるという説を採用したため、道教を国教と定めたが、仏教を排斥するようなことはなかった。仏教に対しては、唐以前の北魏の太武帝など道教側に立った時の政権によって弾圧されることがあり、この時代も含めて「三武一宗の法難」と総称されるが、そのなかで最も規模と影響力が大きかったのが、唐の末期に近い9世紀に起こった武宗の時の廃仏(会昌の廃仏)である。武宗は道教を熱心に信仰し、道士の建言によって仏教を弾圧したが、その背景には仏教寺院が荘園などの財産をもち、僧尼も課役を免除されていたのに対する、唐末の国家財政の財源を得るためという背景があった。その経緯は、当時長安で仏教を学んでいた日本僧円仁の残した『入唐求法巡礼行記』に詳しく記されている。
またこのときの宗教弾圧では、景教(ネストリウス派キリスト教)、ゾロアスター教(祆教)、摩尼教など外来の宗教がいずれも禁止されたために急速に衰え、ほぼ姿を消した。仏教は消滅することはなかったが、大きな打撃を受け、一時衰退し、復興後の中国仏教はもはや鎮護国家的な経典研究中心の仏教ではなく、禅宗と浄土宗という実践を重んじ民衆に根をおろした仏教が中心となっていく。
資料 韓愈の仏教批判
唐の末期の詩人、文章家であり、古文復興運動で知られる韓愈は、819年、憲宗に対して仏教を批判する上表文を提出した。その前半で、中国の仏教の歩みとそれに対する批判を次のように述べている。(引用)陛下の召使い(韓愈のこと)は、仏教が単に後漢のとき以来中国に浸透してきた夷狄の習慣の一つに過ぎないことを申し上げます。昔は、わが国にそのようなものはありませんでした。……その当時は国中平和で、人々は満足し、幸せに暮らし、充実した毎年を送っておりました。……仏教の教えはまだ中国に到着しておりませんでしたから、これは仏に仕えたお蔭ではありません。上表文の後半、およびなぜこの文を上奏したかは、韓愈の項を参照。
仏教の教えは、最初に、漢朝の明帝のときに、現われました。明帝が王座に就いていたのはわずか十八年でした。爾来、混乱や革命が次々と起こり、王朝は長く続かないことになりました。宋、斉、梁、陳、魏の諸王朝の頃から次第に仏に仕えることに熱心になるにつれて、王たちの統治の期間が短くなりました。
梁の武宗(武帝のこと)だけが、ただ一人四十八年間も長い間王位にありました。最初と最後に、彼は三度ほど、世の中を捨てて彼自身仏に仕える身となりました。彼は彼自身の先祖を祀る寺では動物を犠牲に供することを禁じました。彼の一日一回の食事は果物と野菜に限られました。とうとう彼は追い出され飢え死にしました。このようにして彼の王朝は時ならぬ最期を遂げました。彼は仏陀に仕えることによって幸運を求めたのでありますが、彼を襲った不幸はあまりにも大きかったのであります。このような事実に照らして考えますと、仏陀に仕えることは価値がないことが明らかであります。
唐の初代の皇帝、高祖(李淵)は最初に隋の王室の方針を継承して仏教を遠ざける計画でありましたが、彼の大臣や顧問たちは先が見えない人物どもで、先帝がたの方針の真意を理解することができず、過去と現在とに適切な道に暗かったのであります。彼らは皇帝の考えを採用してこの悪を退治することができなかったのであります。そこで、結局は、この皇帝の御意志は無にされたのであります。陛下の召使いは幾度もこのことを残念に思ったことであります。……<E.ライシャワー/田村完誓訳『円仁 唐代中国への旅』1963初刊 1999講談社学術文庫刊 p.342>