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蘇軾(蘇東坡)

11世紀後半、北宋の政治家、文章家。旧法党の一人。詩文、絵画にすぐれ唐宋八大家の一人とされる。代表作『赤壁の賦』。官僚・政治家としては王安石に新法に反対し、たびたび左遷され、詩作、書、絵画その他の多彩な趣味に没頭し、近世的「文人」の代表的存在となった。

蘇東坡

蘇軾(蘇東坡) 趙孟頫

 蘇軾(そしょく 1037~1101)。11世紀後半の宋(北宋)の政治家、文章家。号を蘇東坡(そとうば)という。父は蘇洵、弟は蘇轍そてつで、いずれも文名が高く、政治家としても活躍したので、「三蘇」とも言われる。三蘇はいずれも唐宋八大家に入れられる文章家であり、古文復興を進めて自由な散文を多く作った。『赤壁の賦』などの文章と共に、書・画にもすぐれ、水墨画の技法を完成させた文人画の大家でもあった。
 文章・書・画のマルチな分野で才能を発揮した蘇軾(蘇東坡)は、士大夫層がささえた宋代の文化を代表する文人であり、後の中国文化に強い影響を及ぼした。その生涯は、官僚としては旧法党に属し、王安石らの新法党と対立し、浮沈の激しい生涯であった。

科挙合格と中央政界へ

 1057年の春、開封で行われた科挙の予備試験、翌年春の本試験(省試)、および皇帝の出席する最終試験(殿試)に兄弟そろって優秀な成績で合格した。このとき22歳の蘇東坡の書いた答案は素晴らしく、試験委員長の欧陽脩に激賞されたという。すぐに要職に就けたわけではなく、26歳で陝西省鳳翔府の次官のポストを得て赴任した。3年間地方官吏として勤めた後、1065年開封に戻って直史館(歴史編纂官)のポストに就いたが、翌年に父が亡くなり、弟蘇轍とともに辞任して喪に服した(喪に服して辞任することが官吏の常識だった)。蘇東坡が喪に服している間、中央政府では大きな変化が起こった。1067年、英宗が亡くなり子の神宗が即位すると、王安石が登用され、財政難を立て直すために国家改革として次々に新法が打ち出されていった。<井波律子『中国文章家列伝』2000 岩波新書 p.104-111>

王安石の改革に反対

 中央政界に復帰した蘇東坡は、1070年、神宗のもとで王安石が推進した新法には反対の立場に立ち、公然と上表文を提出した。特に募役法に対しては、辺地の官人が利を得ようとするのはやむをえない人情であるとして反対した。そのため、旧法党の中心人物と見なされ、新法党によって二度にわたり左遷されている。その号の東坡は、左遷されて隠棲した河南省の地名である東坡に因んでいる。なお、弟の蘇轍も新法に反対し、青苗法に異を唱えたため、王安石も一時その施行を思いとどまったという。

流刑地での文人生活

 新法党の勢いが増し、旧法党が次々と中央を離れる中で、蘇東坡も自ら地方勤務を願い出て、1071年杭州の副知事に転出し、その後8年にわたり、地方官を歴任して中央には戻らず、詩作を続けた。1079年に、その詩文において皇帝を誹謗したという嫌疑で逮捕抑留されてしまった。死刑は免れたものの、黄州(湖北省)に流刑となった。44歳であった。しかし蘇東坡はむしろこの流刑生活を楽しむように歩きまわり、詩を多作し、画を描き、畑を耕しながら豊かな食材を用いて料理に腕を振るうという生活を送った。
 その詩文は格調が高く、古文の復興をめざし唐宋八大家の一人に数えられている。代表的な作品に、黄州に左遷されたときに、三国時代の赤壁の戦いの古戦場を訪ね、その感慨を詠んだ『赤壁の賦』がある。またその作品は、楽曲をつけて謡われる「」として庶民に親しまれ、宋代に一つの大衆文化のジャンルとして成立した。 → 宋代の文化

激しい浮沈の生涯

 1085年、新法を推進した神宗が死去し、10歳の哲宗が即位すると、先々代英宗の皇后で哲宗の母である太皇太后が摂政となった。旧法党びいきだった太皇太后によって旧法党は一気に返り咲き、蘇東坡も中央に呼び戻され、翰林学士に抜擢された。弟蘇轍はさらに昇進し、宰相にまで登り詰めた。しかし、今度は旧法党内で権力闘争が起き、ずけずけ言う蘇東坡は嫌われるようになる。うんざりした彼はまたまた地方勤務を希望し、今度はかつて副知事となったことのある杭州の知事となった。その後も中央に呼び戻され、また地方に出るということを繰り返していたが、太皇太后が死んで哲宗が親政を開始すると、1094年に二度目の流刑となり広東省の恵州に流された。愛妻や息子に死なれるという身辺の不幸が続くうち、1097年には三度目の流刑地海南島に流された。南方の地での流人生活は困窮となれない風土で苦しんだであろうが、その自伝的エッセイ『東坡志林』では逆境にめげなく明るく暮らしたことが述べられている。さらに1100年、哲宗が死に、19歳の徽宗が即位すると皇太后が摂政となり、新法党独走を改めるため旧法党官僚の復権を図った。蘇東坡も許されて海南島を離れたが常州まできたときに重病にかかり、死去した。66歳だった。
(引用)明朗闊達な生の達人蘇東坡は、詩文は言わずもがな、書・画をはじめとする多様な芸術ジャンルに通暁し、女性を愛し女性に愛され、六十六年の生涯を存分に生ききった。後世、この生を楽しむことに長けた大文人、蘇東坡のみごとな生き方にあこがれ、これを真似ようとする文人が続出したのも、不思議ではない。<井波律子『中国文章家列伝』2000 岩波新書 p.123-124>

Episode 宋代版受験パパ

 唐宋八大家のうち三人を占めるのが蘇洵とその二人の子、蘇軾(蘇東坡)と蘇轍である。彼らにはこんな話がある。
(引用)著名な文章家三人をつづけざまに出す家が、どのような名流かというと、それがちっともそうではない。(都開封から遠く離れた今の四川省の眉州という田舎町の、おそらくは中小地主であった。)蘇洵の兄の蘇渙が一族の中ではじめて科挙に及第し、任官しているが、蘇洵自身は晩学の人で、四十歳近くなって都の開封に遊学して数年を過ごし、機会を得て臨時試験、制科に応じるが、落第してすごすごと帰郷する。慶暦七年(1047)のことで、二人の息子は十二歳と九歳であった。官途への野心をくじかれた蘇洵が、息子たちに夢を託するようになったのは当然のなりゆきといえよう。それからおよそ十年後の嘉祐元年(1056)の春、蘇洵は重大な決意をもって二人の息子たちを連れて開封へと旅立つ。兄は二十一、弟は十八歳になっていた。……かくて兄弟はこの年の秋に開封府試に及第して得解(省試の受験資格を得ること)、次の年、知貢挙欧陽脩のもとに、これまた二人そろって及第したのである。(当時は解試は居住地で受験するルールであったのに、田舎を離れて開封で受験できた理由はよくわからないが)今日ふうに言えば、さしずめ越境受験ということになるだろうが、すべては父親の息子たちに賭けた夢と期待の大きさを物語っているといえよう。そして息子たちはみごとにそれに応えたのであった。<村上哲見『科挙の話』講談社学術文庫 1980 p.203-207>

蘇東坡と文人画

蘇軾、竹図
蘇軾 墨竹図
 蘇東坡は詩作や書だけでなく、絵画の分野でも文人画を完成させたともいわれる重要な人物である。「蘇東坡がもつ中国文化史上の影響力は絶大なものがある。こと中国絵画理論だけを問題にするなら、彼がすべてと言ってしまっても過言ではない」。<宇佐美文里『中国絵画入門』2014 岩波新書 p.98>
 蘇東坡は、まず「形が似ているかどうかで絵を論じてはいけない」という有名がことばで、中国絵画は形を越えたものを求めるという形象無視の歴史と言っても良い流れを極めている。また、「すばらしい絵が描けるということは、きっと詩も作れるに違いない」という「詩画一如」の考え方を述べている。蘇東坡は、絵の中に詩があり、詩の中に絵がある、という文人画の理想をもとめたのだった。
 蘇東坡が文人画の素材としてとりあげたのが「墨竹」という竹を墨でえがくことだった。これは北宋の頃に盛んになり、蘇東坡が文人画の重要なジャンルとしたことから中国絵画史で定着した。

Episode 蘇東坡の竹

 蘇東坡(蘇軾)は文人画(墨絵画家)の大家としても知られるが、都市計画の専門家でもあった。かつてない大規模なタケ製の水道網を杭州(1089年)と広東(1096年)に建設している。行政官を務めていたある日、蘇東坡は借金が返せない農民を裁いていた。そのあわれな男を気の毒に思い、自分の筆と紙を取り出し一気にタケの絵を描きあげると、その絵を売って借金を返すようにと農民に手渡した。<ビル・ローズ『図説世界史を変えた50の植物』2012 原書房 「タケ」の項 p.19>

Episode ライチを毎日300個食べる

 蘇東坡はまた、食通としても知られていた。ことのほか茘枝(ライチ)が好きで、毎日300食べたという記録がある。おそらく歴史上のライチ大食い競争の優勝者であろう。茘枝は中国南部によくみられる果物で、最近は日本のスーパーでも見られ、食べることが出来るようになった。中国人は果物の中で茘枝がお気に入りで、最も有名なのが楊貴妃だろう。楊貴妃は茘枝を生のまま食べるため、早馬で長安の都まで届けさせていたという。<村山吉廣『楊貴妃』1997 中公新書 p.37>

Episode 豚の角煮「東坡肉」を創作

 続けて食通蘇東坡の話。1089年頃、蘇東坡が杭州の知事(太守)として赴任した時、西湖の浚渫と堤防工事を行った。その年は大豊作だったこともあり、喜んだ人々は蘇東坡に感謝の意味を込めて豚をまるごと一匹と甕に入った紹興酒を献上した。蘇東坡は料理人に「肉は大きな塊に切り、とろ火にして煮込み、水は少なく紹興酒をたっぷり加えること」と命じた。できあがった料理は紹興酒の色に染まり、艶のある赤色をしていた。豚肉の塊は四角い形のまま煮崩れしていない。皮はさっくり香ばしく、脂身はとろりとなり、肉はふっくら柔らかい。蘇東坡は一家に一塊ずつふるまった。人々は舌鼓を打ち、この豚肉料理を蘇東坡にちなんで「東坡肉トンポーロー」と名付けた。<譚璐美『中華料理四千年』2004 文春新書 p.77-82>
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書籍案内

小川環樹・山本和義編訳
『蘇東坡詩集』
1975 岩波文庫

村上哲見
『科挙の話-
試験制度と文人官僚』
2000 講談社学術文庫

井波律子
『中国文章家列伝』
2000 岩波新書

宇佐美文里
『中国絵画入門』
2014 岩波新書

譚璐美
『中華料理四千年』
2004 文春新書