貨幣経済(中世ヨーロッパ)
フランク王国後、衰退していたヨーロッパの貨幣経済が、中世末期の11世紀末に復活した。
カロリング朝フランク王国のカール大帝は、デナリウス銀貨といわれる銀貨を鋳造したが、フランク王国の分裂に伴い、国王の鋳造する貨幣にかわって、領主や教会が貨幣鋳造権を握り、粗悪な銀貨がつくられるようになった。中世では金貨はつくられなくなり、このような銀貨がわずかに流通するだけとなった。11世紀末に経済活動が復活すると、銀貨の需要も強まり、フライブルク銀山などが開かれたが、銀の不足は続いた。地中海貿易が復興すると、貨幣の需要も復活し、銀貨は1192年、ヴェネツィアで質の高いグロート銀貨が鋳造され、また金貨はシチリア王国(1231年)で鋳造されたのを初め、フィレンツェのフィオリーノ金貨(1252年)、ヴェネツィアのデュカット(1284年)などが生まれた。しかしフィレンツェとヴェネツィアを除けば、中世では国家による貨幣の統一的な発行とその運用は行われなかった。<ピレンヌ『中世ヨーロッパ経済史』p.127~144による> → 貨幣(古代・イスラーム) 商業の復活/商業ルネサンス 中国の宋代の商工業の発達のなかでの宋銭の発行
貨幣経済の浸透による荘園制の崩壊
中世ヨーロッパにおける貨幣経済の復活は、封建社会のあり方を変化させる、根底からの動きとなった。貨幣経済が荘園の中に浸透し、荘園領主の生活にも貨幣が必要となってきたため、農民の納める地代は貨幣地代が多くなった。また荘園内の手工業が次第に盛んになり、在地の商工業も盛んになっていった。これらが農民の自立を促すことになった。その反面、困窮した領主は、農民に対する課税を増やし、統制を強めようとした。これが封建反動と言われる動きであり、それに反発した農民一揆が多発することになる。こうして貨幣経済の荘園への浸透が荘園制の崩壊をもたらし、農奴解放が進んで、しいては封建社会を解体させることとなった。