ウスマーン
正統カリフ時代の、イスラーム教団第3代カリフ。ウマイヤ家の出身。『コーラン』を編纂した。反ウマイヤ勢力によって656年に暗殺された。
イスラーム教教団の正統カリフ時代の第3代カリフ(在位644~656)。2代ウマルに次いで、信徒集団から選出された。クライシュ族の中の有力氏族ウマイヤ家の出身であったが、早くにムハンマドに従い、改宗してムハンマドの死後は有力な古参信者として教団を指導した。
また、同年12月、ムハンマドの未亡人アーイシャはバスラでアリーと戦ったとき、「きっとウスマーンの血の復讐をとげてみせよう」と決意を表明し、自らラクダに乗って出陣した。そこからこの戦闘は「ラクダの戦い」と呼ばれている。結局敗れたアーイシャは丁重にメディナに護送され、それ以後は「信者の母」としてムハンマドの言行を語り伝えながら、静かに余生を送ったという。<佐藤次高『イスラーム世界の興隆』世界の歴史8 1997 p.84>
『コーラン』の編纂事業
644年、カリフとなったウスマーンはムハンマドの教えとして伝えられたことがらを整理、統一する必要を感じ、『コーラン』としてまとめる編纂事業を開始した。現在見るコーランはこのとき原型が作られた。征服活動が一段落したこの時代は、前代のウマルの時に戦利品の分配方式から俸給(アター)に切り換えられたことや、ウスマーンがウマイヤ家の出身者を優遇したことなどから不満がおこり、戦士の反乱軍が首都メディナでカリフ・ウスマーンを殺害するという事件が起き、イスラーム国家は最初の試練を迎えた。(引用)ウスマーンの治世は、政治的に混乱した。このため、同時代にも大きな不満が聞かれたし、後世の評価も低い。しかし、イスラームの歴史を総体として考えた場合、彼は最大級の貢献をなした。それは、クルアーン(コーラン)の正典化である。イスラームの聖典は、「読まれるもの/誦(よ)まれるもの(クルアーン)」という名の通り、朗唱と暗記を基本としている。ムハンマドは読み書きが出来なかった。彼は、大天使ジブリールから啓示を受け取り、ただちにそれを記憶したとされる。いずれにしても、弟子たちは、新しいクルアーンの章句だと言って彼が朗唱すると、すぐにそれを覚えていった。覚えた者たちは、他の者たちに読み聞かせ、聞いた者たちがさらに覚えるという方法で、聖典は広められた。<小杉泰『イスラーム帝国とジハード』講談社学術文庫 2016>
ウスマーンの暗殺と第一次内乱
イスラーム国家の最前線であるイラクのクーファやバスラ、エジプトのフスタートに駐屯する戦士は、征服戦争が一段落したため戦利品が手に入らず、報酬も少なかったので、カリフのウスマーンに不満を募らせた。656年6月、メディナのカリフ邸に押しかけた反乱軍はコーランを読誦中のウスマーンを襲撃し殺害してしまった。第4代カリフには混乱の中でハーシム家出身のアリーが選出されたが、アリーにはウスマーン殺害の黒幕の疑いがかけられた。ウスマーンを支持した人々はムハンマドの未亡人アーイシャを担ぎ出し、同年12月、両勢力はバスラ郊外で一戦を交えることになった。こうして第1次内乱(656~661年)が始まった。Episode 「血染めのコーラン」と「ラクダの戦い」
656年6月、ウスマーンが暗殺されたとき読誦していた『コーラン』は、現在もイスタンブルのトプカプ宮殿に『血染めのコーラン』として陳列されているという。また、同年12月、ムハンマドの未亡人アーイシャはバスラでアリーと戦ったとき、「きっとウスマーンの血の復讐をとげてみせよう」と決意を表明し、自らラクダに乗って出陣した。そこからこの戦闘は「ラクダの戦い」と呼ばれている。結局敗れたアーイシャは丁重にメディナに護送され、それ以後は「信者の母」としてムハンマドの言行を語り伝えながら、静かに余生を送ったという。<佐藤次高『イスラーム世界の興隆』世界の歴史8 1997 p.84>