後ウマイヤ朝
756年、アッバース朝から逃れたウマイヤ朝の勢力がイベリアで建国。コルドバを都に、10世紀のアブド=アッラフマーン3世の時に全盛期となってカリフを称し、バグダード、カイロとの三カリフ分立となった。1031年に内紛によって滅亡した。

後ウマイヤ朝の関連地名
カリフを称す
アブド=アッラフマーン3世の時に全盛期となり、929年のカリフに称号を名乗るようになり、西カリフ帝国とも言われるようになる。首都コルドバは西方イスラーム文化の中心として、ヨーロッパからの留学生も集まり、文化都市として繁栄した。これによってイスラーム世界はバグダードのアッバース朝のカリフ、カイロのファーティマ朝のカリフとコルドバの後ウマイヤ朝のカリフの三カリフが分立する3カリフ時代となった。衰退
後ウマイヤ朝は10世紀に最盛期となったが、その後急速に衰退した。カリフの地位をめぐって内紛が頻発し、最後のカリフのヒシャーム3世の時、地方勢力が反旗を翻して、1031年に滅亡した。その後イベリア半島のイスラーム勢力は、セビーリャ、グラナダ、サラゴサ、トレドなどにタイファと称する小王国が30ほど分立する混乱時代となった。このようなイスラーム側の分裂に乗じて、北部のキリスト教徒が国土回復運動/レコンキスタの攻勢を強めていく。コルドバの後ウマイヤ朝の王宮
コルドバの郊外にあるマディーナ・アッザフラーは、後ウマイヤ朝時代の全盛期、10世紀のアブド=アッラフマーン3世が造営した王宮跡。アブド=アッラフマーン3世が929年にカリフを宣言したのち、936年に造営を開始し、次のハカム2世の時代まで35年かかって造営した王宮であった。後ウマイヤ朝が衰微したため長く荒廃していたが、1910年から発掘が始められ、王宮の全貌が明らかになり、出土品も隣接の博物館に収蔵されている。世界遺産コルドバの構成遺構。