アッバース朝
750~1258年までアッバース家のカリフ支配が続いたイスラーム帝国。762年に建造された新都バグダードを中心に、8世紀末に全盛期となり、北アフリカから中央アジアに及ぶ広大な領域を支配した。9世紀なかごろから地方に独立政権が生まれ、イベリア半島・エジプトにもカリフが分立した。バグダードでは実権はブワイフ朝の大アミール、セルジューク朝・アイユーブ朝のスルタンに奪われ、カリフ支配は形骸化した。最後はモンゴルのフラグによって滅ぼされた。
750年、ダマスクスを都としていたウマイヤ朝を実力で倒し、あらたにカリフの地位をアッバース家が世襲することになった王朝。その支配は西は北アフリカ、東は中央アジア、インダス流域を含む広範囲に及び、イスラーム帝国として統治した。都は第2代マンスールの時、762年からバグダードの建設が始まり、766年に完成、帝国の主として宗教、商業上でも中心となり繁栄した。アッバース朝は8世紀後半のカリフ、ハールーン=アッラシードの時に全盛期となったが、9世紀後半から分裂傾向が強くなり、カリフは実質権威を失っていった。それでもバグダードのカリフそのものは1258年にモンゴル軍の侵入で殺されるまで、長期にわたり存在し、イスラーム世界の名目上の統治者としての権威を保持し続けた。
POINT アッバース家はスンナ派政権であったウマイヤ朝を倒すためにシーア派の力を利用したが、政権を握ると、多数派の立場に立ち、シーア派を弾圧した。多数派であるスンナ派の支持を受けてカリフの地位もアッバース家が世襲することとなった。反面、一転してシーア派は厳しく弾圧されることになる。
ハールーン=アッラシードの時代 8世紀後半から9世紀にかけて、アッバース朝のカリフは「ムハンマドの後継者」よりも「神の代理人」と考えられるようになり、786年にカリフとなったハールーン=アッラシードのころ全盛期を迎えた。同じころ、ヨーロッパではフランク王国のカール大帝の時代であり、両者は直接会うことはなかったが互いにその存在を認識し合う関係にあった。この時代は首都バグダードを中心とした都市文明がもっとも盛んになっており、イスラーム世界の全域でムスリム商人による活発な商業活動や文化の交流があったことは、この時代の伝承を集約した『千夜一夜物語』によくあらわされている。
第7代カリフとなったマームーン(マアムーン、アル=マームーンとも表記)は権力を回復するため、軍隊の改編を行い、トルコ系の奴隷兵士を主体とする軍人を育成した。ムスリムの自発的な意志によって編制され、カリフからアター(俸給)をあたえられる軍隊ではなく、統治者に直属し一般社会に帰属しない軍隊(マムルークといわれた)が存在し、やがて彼らがカリフの改廃にも介入するようになっていく。
マームーンはもう一つの改革を行った。それは父のハールーン=アッラシードの時に設けられた宮廷の図書館を拡充して830年ごろ「知恵の館」(バイト=アル=ヒクマ)を開設し、ギリシア伝来の多数の科学技術書などを収納し、多数の学者を動員してそのアラビア語訳を進めた。この事業はイスラームの文化水準と高めると共に、イベリア半島や南イタリアを経由してヨーロッパにももたらされ、12世紀ルネサンスへとつながっていくこととなり、重要な意義があった。 → イスラーム文明
この間、アッバース朝本国でも869年~883年にはアッバース朝で使役されていた黒人奴隷の反乱であるザンジュの乱が起きた。反乱は鎮圧されたが、アッバース朝の衰退は急速に進んだ。
三カリフ時代 9世紀までのこれらの地方政権は一応アッバース朝のカリフの権威は認め、貢納を続けていたので、いわは地方政権にとどまり完全な独立王朝とは言えなかったが、10世紀の前半になると、アッバース朝のカリフ兼を認めないファーティマ朝が登場し、後ウマイヤ朝と共に堂々とカリフを称するようになり、イスラーム帝国の分裂が明確になって3カリフ時代に突入した。
アッバース朝カリフの名目化三カリフ時代 バグダードには、946年にはイラン系の軍事政権であるブワイフ朝(932~1062年)が成立、そのもとでカリフは名目的な存在となった。1055年にはセルジューク族がバグダードに入城してカリフは救出されるが、実権を回復することはなかった。セルジューク朝のもとでスルタンがカリフから政治権力を奪う形となり、カリフは宗教的権威に限定されることになった。
「一般にもっとも信じられているのは、カリフはカーペットに巻かれ、足蹴にされ踏みにじられて殺されたという説である。このような殺し方は、モンゴルのやり方にかなっている。モンゴルは、王族や高貴な血筋のものを処刑し、そのものに名誉ある死を賜ろうとすると、流血をみずにすむほうほうをとった。」<D.ゴードン『モンゴル帝国の歴史』1986 杉山正明・大島淳子訳 p.164>
アッバース革命
アッバース朝の成立の背景には、ウマイヤ朝のアラブ至上主義が、アラブ人以外のイスラーム教徒の反発を強め、また彼らの中に反体制派のシーア派が生まれ、不満が高まったことがあった。そのような状況でアッバース家のクーデターが成功して成立して新王朝が成立、この変革をアッバース革命ということもある。Episode 白と黒の戦い
この戦いの時、ウマイヤ家が死に装束を意味する白い衣をまとって戦ったのに対し、アッバース家はムハンマドが掲げていた黒旗を掲げて戦った。黒旗は今もシーア派のシンボルとしてテレビのニュース画面などで見ることがある。なお、中国にもイスラーム世界は大食(タージー)として知られていたが、この王朝交替は唐代の記録ではウマイヤ朝を「白衣大食」、アッバース朝を「黒衣大食」とよんでいるのも、それぞれが白と黒を掲げて戦ったからだった。アッバース家
ウマイヤ家に対抗したイスラームの有力一族。ムハンマドと同じハーシム家の一族に属する。ムハンマドの叔父のアル=アッバースの子孫たち。ウマイヤ家に対する反発が強くなると、ムハンマドの血統につながる家系としてアッバース家が台頭した。アッバース家はイラクのクーファ(かつての第4代カリフ・アリーの本拠)を中心に、ホラーサーン地方(イランの東北部)のイラン人ムスリムや、シーア派を運動に取り込み、反ウマイヤ朝の運動を開始し、アブー=アルアッバースが750年にクーデターを起こしてウマイヤ朝を倒してカリフとなり、アッバース朝を創始した。アッバース朝は、建国に際してはシーア派の支援を受けたが、権力を握るとスンナ派の立場に立って、シーア派を厳しく弾圧した。POINT アッバース家はスンナ派政権であったウマイヤ朝を倒すためにシーア派の力を利用したが、政権を握ると、多数派の立場に立ち、シーア派を弾圧した。多数派であるスンナ派の支持を受けてカリフの地位もアッバース家が世襲することとなった。反面、一転してシーア派は厳しく弾圧されることになる。
Episode アッバース家の癇癪筋
ウマイヤ朝にかわったアッバース朝の時代は、アラビア科学の全盛期を現出し、医学も大成した。高名な医学者も現れたが、その治療を受けたアッバース家のカリフたちには医者を手こずらせる癇癪持ちが多かった。(引用)この王朝の初代のカリフはアブール・アッバースで、予言者マホメットの叔父アッバースの末裔であるが、「アッ・サッファーハ」(血をそそぐもの)という殺伐な名で知られている。749年10月末にユーフラテス川に近いクーファで即位したときの宣言のなかで、ウマイヤ朝の撃滅を誓い、そのときつかった言葉の一つである。在位わずか5年で、天然痘でたおれた。→ 第二代カリフ マンスール
このアッバース王朝の人々には、額に太い静脈、つまり癇癪筋が浮いた人が多く、興奮するとそれがふくれあがったという。そのせいばかりではあるまいが、この王朝の滅亡まで37代のカリフたちのうちには、殺伐を軽々しくし、悲劇的な最期を遂げたものが多かった。<前嶋信次『アラビアの医術』1965 中公新書 p.40-41>
アラブ帝国からイスラーム帝国へ
アッバース朝はアラブ人だけに依存しない、官僚制度や法律を整備し、また税制を改革してアラブと非アラブの平等化を図り、多民族共同体国家としてのイスラーム帝国の維持に努めた。そのもとでイラン人など非アラブ人の官僚が進出し、「アラブ帝国」ではない、真の「イスラーム帝国」の段階に入った、とされる。しかし一方でウマイヤ朝の残存勢力が遠く西方のイベリア半島に自立し、756年に後ウマイヤ朝を建国したので、アッバース朝の成立はイスラーム国家の分裂をもたらすことになった。アッバース朝の税制改革
シーア派や非アラブ人の反ウマイヤ運動に乗じて権力を奪取したアッバース朝は、イスラーム教徒(ムスリム)の平等化をはかる必要があった。その一環としての税制の変更は、一般に、「非アラブの改宗者(マワーリー)のジズヤを免除し、アラブ人(征服地で土地を持つ場合)にもハラージュを課すこととした」とされている。なお、イスラームに改宗しない非アラブ人(ジンミー(ズィンミー))は、そのままハラージュとジズヤを納めることを条件に他の宗教の信仰を認められた(原則として「啓典の民」のみ)。その広がりと全盛期
アッバース朝の時代には、中央アジアでは唐帝国と接することとなり、751年にはタラス河畔の戦いでその軍隊を破った。しかし、この時代の領土拡張はそれ以上進むことはなく、756年にイベリア半島に後ウマイヤ朝が分立して、領土は縮小した。むしろイスラーム帝国の一体性のある統治がめざされた。ハールーン=アッラシードの時代 8世紀後半から9世紀にかけて、アッバース朝のカリフは「ムハンマドの後継者」よりも「神の代理人」と考えられるようになり、786年にカリフとなったハールーン=アッラシードのころ全盛期を迎えた。同じころ、ヨーロッパではフランク王国のカール大帝の時代であり、両者は直接会うことはなかったが互いにその存在を認識し合う関係にあった。この時代は首都バグダードを中心とした都市文明がもっとも盛んになっており、イスラーム世界の全域でムスリム商人による活発な商業活動や文化の交流があったことは、この時代の伝承を集約した『千夜一夜物語』によくあらわされている。
カリフ マームーンの時代
ハールーン=アッラシードが809年に死去すると、その子のアミーンが第6代カリフとなったが、その兄のホラーサーン総督マームーンとの間で対立が生じ、マームーンも811年にカリフ位を宣言した。この対立はホラーサンの軍事力を握ったマームーンが勝利したが、カリフの地位を巡る内紛はその権威を低下させる契機となった。第7代カリフとなったマームーン(マアムーン、アル=マームーンとも表記)は権力を回復するため、軍隊の改編を行い、トルコ系の奴隷兵士を主体とする軍人を育成した。ムスリムの自発的な意志によって編制され、カリフからアター(俸給)をあたえられる軍隊ではなく、統治者に直属し一般社会に帰属しない軍隊(マムルークといわれた)が存在し、やがて彼らがカリフの改廃にも介入するようになっていく。
マームーンはもう一つの改革を行った。それは父のハールーン=アッラシードの時に設けられた宮廷の図書館を拡充して830年ごろ「知恵の館」(バイト=アル=ヒクマ)を開設し、ギリシア伝来の多数の科学技術書などを収納し、多数の学者を動員してそのアラビア語訳を進めた。この事業はイスラームの文化水準と高めると共に、イベリア半島や南イタリアを経由してヨーロッパにももたらされ、12世紀ルネサンスへとつながっていくこととなり、重要な意義があった。 → イスラーム文明
地方政権の自立とアッバース朝の形骸化
9世紀以降は次第に地方の政権が分離し、イスラーム帝国の分裂の時代に入る。8世紀にはすでにイベリア半島の後ウマイヤ朝が成立していたが、9世紀に入るとトルコ系の軍人の勢力が台頭し、868年、にはエジプトにトルコ系のトゥールーン朝が自立、さらに東方の中央アジアでは875年にサーマーン朝、イラン東部では867年にサッファール朝が自立した。この間、アッバース朝本国でも869年~883年にはアッバース朝で使役されていた黒人奴隷の反乱であるザンジュの乱が起きた。反乱は鎮圧されたが、アッバース朝の衰退は急速に進んだ。
三カリフ時代 9世紀までのこれらの地方政権は一応アッバース朝のカリフの権威は認め、貢納を続けていたので、いわは地方政権にとどまり完全な独立王朝とは言えなかったが、10世紀の前半になると、アッバース朝のカリフ兼を認めないファーティマ朝が登場し、後ウマイヤ朝と共に堂々とカリフを称するようになり、イスラーム帝国の分裂が明確になって3カリフ時代に突入した。
アッバース朝カリフの名目化三カリフ時代 バグダードには、946年にはイラン系の軍事政権であるブワイフ朝(932~1062年)が成立、そのもとでカリフは名目的な存在となった。1055年にはセルジューク族がバグダードに入城してカリフは救出されるが、実権を回復することはなかった。セルジューク朝のもとでスルタンがカリフから政治権力を奪う形となり、カリフは宗教的権威に限定されることになった。
十字軍時代のバグダード
11世紀末の十字軍時代には、アッバース朝のカリフはバクダードの周辺を治めるだけになっており、イスラーム世界はセルジューク朝とファーティマ朝が対立していたため一致して抵抗することができず、キリスト教勢力がパレスティナにイェルサレム王国を建てることを許してしまった。イスラーム勢力の反撃を実現したサラーフ=アッディーン(サラディン)は、アイユーブ朝を建てたが、バグダードのアッバース朝カリフに対しては一定の権威を認めていた。しかし、サラディンの死後は、カリフを保護する力は無くなってしまった。アッバース朝の滅亡
モンゴル帝国はモンケ=ハンの時、フラグに率いさせて、西方への遠征軍を派遣した。モンゴル軍は1258年にバクダードを占領し、10万人(一説によると80万人)が殺害された。アッバース家のカリフ、ムスターシムもモンゴル軍の手にかかり殺害された。これによって750年に始まるアッバース朝は名実ともに約500年で滅亡した。なお、難を逃れたカリフの一族の一人がカイロに逃れ、マムルーク朝の保護を受けることとなる。カリフはカイロのアッバース朝傀儡政権の下で継続するが、スンナ派世界の指導的権威を失い、実質的にカリフ制度は終わりを告げた。後にオスマン帝国において、スルタン=カリフ制として復活するが、それは名目的なものであった。カリフ制度断絶の意味
モンゴルのフラグによってムハンマドの代理者としてのカリフが殺害されたことはイスラーム世界にどのような影響を与えたであろうか。モンゴル軍はバグダードに入る前にイスマイール派の暗殺教団を滅ぼしているが、暗殺教団はスンナ派はもちろん他のシーア派からも恐れられていたので、その滅亡は歓迎されることであった。またバグダードのカリフ家もかつてのような宗教的権威は無くなっており、スンニ派の神学者もカリフ家を擁護しなかった。カリフが殺されても誰もが嘆き悲しんだわけでもなかった。またカイロのアッバース朝傀儡政権のカリフを認めたのは、マムルーク朝と、同じマムルーク系のインドのデリー=スルタン朝だけであった。こうしてスンニ派社会は「全体として、驚くべきことにカリフ無しで充分うまくやっていけることをさとり、はるか後世のオスマン朝スルタンたちがそれに加えてカリフの様式をとるまでは、そうした状態が続いた。」<D.ゴードン『モンゴル帝国の歴史』1986 杉山正明・大島淳子訳 p.164>Episode バクダードの陥落とカリフの最後
フラグの率いるモンゴルの西アジア遠征軍は、イランのエルブルズ山脈地方でイスマーイール派の掃討に丸3年をかけた後、1257年、バグダードの総攻撃に移った。40日間の攻防の後、守備隊は最後の一兵まで殺された。バグダードの街には火が放たれ、猛火は二十日間にわたって炎上し、「アラブの一史家によれば、二〇〇万人の市民のうち、一六〇万人が殺され、ティグリス川は流血のため数キロメートルも赤く染まったほどであった。」カリフのムスターシムは投降したが、フラグは聖なる血統を引く人物を斬罪に処するのを避け、「皮の袋に封じ込まれ、バクダードの大通りを疾駆する馬に引かれて、袋の中で息絶えた。」<牟田口義郎『物語中東の歴史』中公新書>「一般にもっとも信じられているのは、カリフはカーペットに巻かれ、足蹴にされ踏みにじられて殺されたという説である。このような殺し方は、モンゴルのやり方にかなっている。モンゴルは、王族や高貴な血筋のものを処刑し、そのものに名誉ある死を賜ろうとすると、流血をみずにすむほうほうをとった。」<D.ゴードン『モンゴル帝国の歴史』1986 杉山正明・大島淳子訳 p.164>