国土回復運動/レコンキスタ
イベリア半島でのキリスト教勢力がイスラーム勢力を排除する動き。レコンキスタ。
8世紀に始まるイスラーム支配に対する、イベリア半島のキリスト教徒による反撃の動き。11世紀から活発となり、15世紀末まで続く。レコンキスタとはスペイン語で再征服の意味で、国土回復運動とも言われる。
711年、イベリア半島にイスラームの侵入(ウマイヤ朝)が開始され、キリスト教国の西ゴート王国を滅ぼして以来、現在のスペインとポルトガルの地は、イスラーム教徒(ムーア人、モーロ人などといわれた)の支配を受けることとなった(イスラームといってもアラブ人はその支配者層だけで数は少なく、大部分は北アフリカのベルベル人であった)。
ムワッヒド朝カリフのヤークーブ=マンスールは1195年、アラルコスの戦いでカスティーリャ=レオン王国アルフォンソ8世に大勝し、さらにトレドを攻撃した。これに対してトレドの司教らの働きかけによってローマ教皇インノケンティウス3世がカスティーリャ、ナヴァラ、アラゴン、ポルトガルさらにフランスなどのキリスト教国に「十字軍」をよびかけた。1212年のラス=ナバス=デ=トロサの戦いは両勢力の決戦となったが、アルフォンス8世の率いるキリスト教軍の勝利となり、この戦いを分岐点として、ムワッヒド朝によるアンダルス支配は急速に衰えていく。
711年、イベリア半島にイスラームの侵入(ウマイヤ朝)が開始され、キリスト教国の西ゴート王国を滅ぼして以来、現在のスペインとポルトガルの地は、イスラーム教徒(ムーア人、モーロ人などといわれた)の支配を受けることとなった(イスラームといってもアラブ人はその支配者層だけで数は少なく、大部分は北アフリカのベルベル人であった)。
後ウマイヤ朝のイベリア支配
イベリア半島のキリスト教徒に対して、イスラームの支配者(756年からは後ウマイヤ朝)は、ユダヤ教とともに「啓典の民」として容認していたので、キリスト教徒は地租と人頭税を納めれば、信仰と固有の法を認められていた。キリスト教徒のなかには8世紀からイスラームの支配に抵抗する者もあったが、多くは平和に共存し、後ウマイヤ朝の都コルドバは文化の中心としても栄えた。また西ゴート王国の都だったトレドも学問の中心地としてヨーロッパ諸国にも知られていた。ムラービト朝のイベリア進出
しかし、1031年に後ウマイヤ朝が滅亡して、イスラーム勢力が分裂(これをターイファという)したことに乗じて、キリスト教徒によるレコンキスタの戦いが活発となった。1085年にはカスティーリャ=レオン王国のアルフォンソ6世がトレドの奪回に成功した。危機に陥ったアンダルスのイスラーム諸国は、当時北アフリカのモロッコで急速に勢力を拡大していたイスラーム勢力であるムラービト朝に支援を要請した。それに答える形でムラービト朝はジブラルタルを超えて侵攻し、1086年のザグラハスの戦いでアルフォンソ6世を破り、レコンキスタの勢いを一時後退させ、アンダルスを支配するようになった。このころ、アルフォンソ6世の下で活躍したのが英雄エル=シドであった。彼の活躍で1094年にはバレンシアを奪回した。ムワッヒド朝のイベリア進出
12世紀中頃、モロッコで有力となった宗教運動から成長したムワッヒド朝が、1147年にムラービト朝を倒すと、混乱していたアンダルスのイスラーム勢力の要請によって1160年に強力な軍事力をもってアンダルスを勢力下に収めた。ムワッヒド朝カリフのヤークーブ=マンスールは1195年、アラルコスの戦いでカスティーリャ=レオン王国アルフォンソ8世に大勝し、さらにトレドを攻撃した。これに対してトレドの司教らの働きかけによってローマ教皇インノケンティウス3世がカスティーリャ、ナヴァラ、アラゴン、ポルトガルさらにフランスなどのキリスト教国に「十字軍」をよびかけた。1212年のラス=ナバス=デ=トロサの戦いは両勢力の決戦となったが、アルフォンス8世の率いるキリスト教軍の勝利となり、この戦いを分岐点として、ムワッヒド朝によるアンダルス支配は急速に衰えていく。
国土回復運動の意義
国土回復運動(レコンキスタ)は、東方世界でのセルジューク朝の進出によるビザンツ帝国領の侵犯に対抗する十字軍運動や、北東ヨーロッパにおけるドイツ人の東方植民の運動などと同じく、西欧のキリスト教世界の膨張運動と捉えることができる。13世紀以降の動き
ムワッヒド朝がマグリブに撤退した後のアンダルスは、13世紀以降キリスト教国、カスティリャ王国とアラゴン王国に征服され、カスティリャから分離したポルトガルも国土を拡大していった。イベリア半島で残るイスラーム教国は1237年に成立したナスル朝のグラナダ王国のみとなった。レコンキスタの完成
カスティリャの王女イサベルとアラゴンの王子フェルナンドが結婚(1469年)し、フェルナンドがアラゴン王に即位した1479年に両国は統合してスペイン王国が成立、二人は「カトリック両王」といわれるようになった。スペイン王国は、1492年1月にイスラーム教国ナスル朝の最後の拠点グラナダを陥落させ、イスラーム勢力は北アフリカに後退し、レコンキスタが完成する。この同じ1492年10月にスペイン王の命令でコロンブスが大西洋横断に成功、大航海時代が展開されていくこととなる。 → 1492年という年レコンキスタ以後
1492年の降服の時の協約によれば、イスラーム教徒は政治権力は引き渡しても、イスラーム教を守り、また衣装、習俗、言語などに関してもじぶんたちのものを守ってイベリア半島に居住しても良いという、かなり寛大な条件を与えられていた。のちに、彼らがたびたび反乱を企てるので、1502年に追放令が出される。一方、ユダヤ教徒に対してはそれに比べてかなり厳しく、グラナダ陥落の直後の1492年3月31日に、ユダヤ教徒追放令(ユダヤ人追放令)が出されている。<増田義郎『コロンブス』岩波新書 p.133>