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ゴール朝

アフガニスタンのゴールから興ったトルコ系イスラーム教国で、12世紀中頃、ガズナ朝を滅ぼした。インド侵入をくり返し、1192年、ヒンドゥー教徒のラージプート諸侯を制圧して北インドに侵出。北インドを恒常的に支配するイスラーム政権となった。1206年、部将のアイバクがデリーに奴隷王朝を建てた。

ゴール朝

ゴール朝

 ゴールとは、アフガニスタン中部のゴール地方のことで、12世紀の中頃、ガズナ朝に支配されていた部族が自立し、1148年に独立し建国したイスラーム王朝。ガズナ朝の衰退に乗じて有力となり、1173年に首都ガズナを占領、ガズナ朝はパンジャーブ地方のみ政権となった。
 ゴール朝は、兄ギャース=ウッディーン=ムハンマドと弟ムハンマド=ゴーリーの兄弟が王国の勢力拡大に努め、兄はもっぱら西方経営にあたってホラズムと戦い、弟は東方のインドへの勢力拡大に努め、1186年にはパンジャブ地方のガズナ朝を滅ぼした。。この兄弟のもとでゴール朝はアフガニスタン、イラン東部から北インドに及ぶ広大な領土を支配する、東方のイスラーム政権となった。  → インドへのイスラーム教の浸透

北インドに侵攻

 パンジャーブを平定したゴール朝のムハンマド(?~1206)は、ガズナのマフムードと同じく、1175年に北インド侵入を開始し、イスラーム勢力の拡張につとめた。北インドにはガズナ朝の侵攻に抵抗したヒンドゥー教徒であるラージプート諸侯が残っていたが、1192年、ムハンマドはラージプート諸侯軍をタラーインの戦いで破り、北インドを平定した。この戦いでデリーのチャーハマーナ朝も滅亡して、インドのイスラーム化は大きく進むこととなった。

インド仏教の終焉

 1203年にはベンガル地方にあったパーラ朝を滅ぼし、その際にはナーランダー僧院などを破壊した。これによってインドにおける仏教の繁栄は終わりをつげた。 → インドの仏教衰退

ガズナのマフムードとゴールのムハンマド

 ゴール朝のムハンマドは、「ガズニのマフムード」とならんで「ゴールのムハンマド」として世界史上で知られている。ともに北インドで略奪を行った侵入者である。いずれもカイバル峠やタール砂漠などの自然の障壁をラクダ部隊などで超えてガンジス川中流のカナウジなどの寺院に蔵された金銀財宝を略奪したのだが、この両者には大きな違いがある。ガズナのマフムードは、略奪を終えると多くの戦利品や奴隷をともなってガズナに引き上げたが、ゴールのムハンマドはインドの富の略奪を目的としたばかりでなく、その地を征服することも含まれていた。
 ゴールのムハンマドには有能な部下が多かったが、デリー周辺の征服地は部下の一人アイバクに任せ、自らはガズナに戻った。ところが1206年に暗殺され、ゴール朝は分裂状態となった。北インドのデリーには同1206年、アイバクが奴隷王朝を建てて自立し、アフガニスタン、イラン方面に残ったゴール朝は1215年にホラズムによって滅ぼされた。
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