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セシル=ローズ

19世紀末、南アフリカでダイヤモンド・金鉱の経営で巨富を得、イギリスのケープ植民地現地政府の首相として、植民地拡大を強行、ローデシアを建設した。その強引な手法が批判され1896年に辞任したが、その路線は本国植民地相ジョセフ=チェンバレンが継承し、南ア戦争(1899~1902年)へとつながった。

セシル=ローズ
アフリカ縦断政策を進めるセシル=ローズの風刺画。カイロとケープタウンを足で押さえている。
 イギリス人で南アフリカのケープ植民地首相(在任1890~96年)となり、本国の植民相ジョゼフ=チェンバレンと並んで、イギリス帝国主義を押し進めた人物。

ケープ植民地首相となる

 1870年にイギリスから南アフリカに渡り、ダイヤモンドの採掘に成功して巨富を得、さらにトランスヴァールの金鉱を独占した。ケープ植民地は1872年に自治が認められ、ローズは84年に植民地政府の大蔵大臣、90年に首相になった。この時期、ヨーロッパの帝国主義列強は、植民地の獲得をめざしてアフリカ分割にしのぎを削っていた。1884~85年のベルリン会議でコンゴ地方についての妥協が成立したが、各国はさらに「実効支配」を拡張しようと躍起になり始めた。

ローデシア建設

 セシル=ローズは、カイロとケープ植民地を結ぶアフリカ縦断政策を推進しようとして、ケープ植民地の北方に遠征軍を送り、ポルトガルなどと現地人の勢力を排除しイギリス領植民地に編入した。彼が獲得した地は後に彼の名をとってローデシア(現在のザンビアとジンバブエ)と名付けられた。また、ブール人の国トランスヴァール共和国オレンジ自由国の併合を策し、セシル=ローズは1895年年末に部下ジェームソンを使ってトランスヴァール侵入を試みたが失敗し、その強引なやり方が批判されて、翌1896年、植民地首相の地位を退いた。

ジョセフ=チェンバレンとの関係

 同年に本国の植民地相となったジョセフ=チェンバレンはセシル=ローズの植民地拡大策を実現しようとして、トランスヴァール共和国への介入を強め、ついに1899年南アフリカ戦争※の勃発となり、激戦の末、1902年にイギリス直轄植民地とした。
※注意 教科書などでは、ジョゼフ=チェンバレンとセシル=ローズが協力して南アフリカ戦争を起こしたような説明になっていることが多いが、戦争勃発のときは、すでにローズはケープ植民地首相を辞任しているので注意すること。ジョセフ=チェンバレンがローズの意図を継承し、南ア戦争を遂行して南アフリカ植民地化を遂げたと言うのが正しい。

NewS オックスフォード大学でセシル=ローズ像撤去の動き

 2020年5月にアメリカのミネアポリスで起こった白人警官による過剰拘束で黒人容疑者が死んだ事件への抗議から始まったBLM運動で、アメリカだけでなく世界中で黒人差別の歴史に対する見直しを迫る動きが起こった。イギリスのブリストルでは、奴隷商人の銅像が引き倒され、アメリカのリッチモンドでは南軍司令官リー将軍の銅像の撤去が問題となっている。イギリスのオックスフォード大学では、セシル=ローズは成功した実業者として多額の寄付金を出しているので、大学の学寮のひとつオリオル・カレッジでは正面玄関上部に巨大なセシル=ローズ像が立っている。こちらはすでに2016年に学生の中から植民地主義者・差別主義者の銅像は撤去すべき、との声が起こっていたが、その時は大学当局はそのまま保存すると決定していた。 → ロイター通信ホームページ

セシル=ローズと帝国主義

セシル=ローズは19世紀後半を代表する、最も帝国主義的な思想を持ち、行動した人物として知られている。かつては世界史上の英雄のひとりとしてもてはやされていたこの人物は、現在では歴史の教科書に出てくるひとりとなってしまい、今やその生涯について紹介されることは少なくなっている。しかし、セシル=ローズという人物を知ることは、かつて世界を二度の大戦にまで追い込んでいったと考えられる帝国主義について考えるとき、抜かすことのないことの一つと思われる。

 21世紀の現在では、すでに彼の名を冠したローデシアという国名はなく、出身校オックスフォード大学に立つ銅像も人々から冷たい眼を向けられている。しかし、彼が体現していた帝国主義とは何だったのか、また、現代のアパルトヘイトやアフリカの政治的困難の原点にあるこの人物はどのようなことをしたのか、知っておくべきことが多くあると思う。最近は彼を取り上げる評伝も見られないので、やや古いが<鈴木正四氏の『セシル・ローズと南アフリカ』1980 誠文堂新光社>を手がかりに見ていこう。
ダイヤモンド鉱山主となる セシル=ローズが南アフリカの地にやってきたのは、ダイヤモンドが発見されて間もない1870年9月、17歳のときだった。生まれはロンドン北方の代々の農家だったが曾祖父の代に煉瓦工場を始めており、生活には不足のない地主階級だった。無口で人間嫌いな子供で身体も丈夫でなかく胸を病んだセシルは、気候も暖かく、空気も乾燥している南アフリカに渡ることを決意した。すでに兄がその地で綿花の農園を経営して成功していたを頼って、ナタールのダーバンに着いた。すっかり健康になったセシルは、2年目に兄と共に綿農園に見切りをつけ、1869年に発見されたダイヤモンドにめぼしをつけてキンバリーで鉱山の一つを買い入れその経営に乗り出した。セシルは兄を助け、原住民の中に入ってダイヤモンドを探す坑夫として働いた。セシルが掘り出したダイヤモンド原石は驚くほどの値段で買い手がつき、兄弟はまたたくまに豊かな鉱山主になった。セシルは上陸後わずか10年で南アフリカ一流の富豪となり、20年後には文字通りの千万長者となった。
デビアス鉱業会社 セシル=ローズが成功したのは、ダイヤモンドという投機的な商品に必ず起きる価格暴落を、生産工程を合理化することで乗り切り、その都度脱落した同業者の鉱山を買収して経営規模を拡大したためであった。ダイヤモンドは小企業が競って増産すると価格が下落するので、必然的に独占的な企業が生産をコントロールして暴落を防ぐという力学が働き、セシル=ローズはそれに成功した、といえる。セシルはキンバリーの鉱山の中でも有望だったデビアス(ド=ベールス)鉱山を買収、事業を拡大し、1880年にはデビアス鉱業会社を設立したが、そのころキンバリーでは後にライバルとなるベルナト鉱業会社とフランス系の会社の三社だけになり、独占が進んだ。
イギリスの帝国主義 そのころ、本国ではディズレーリ首相が自由貿易主義から帝国主義的膨張策に転換していた。アフリカ現地ではトランスヴァール共和国でもローズらイギリス人鉱山経営者とブール系の農業経営者との間で、現地の黒人労働者の扱いをめぐって利害の対立が目立ち、政治的にも混乱が始まっていた。ローズら鉱山経営者は黒人を安価な労働力として使おうとするのに対し、ブール人農場主は彼らを農奴的に農園に縛り付けようとした。イギリス本国政府はセシル=ローズらを支援、軍隊を派遣して、1877年4月にトランスヴァールの併合を強行した。しかし、トランスヴァールのブール人の抵抗は続き、イギリスは1879年に原住民ズールー人とのズールー戦争が起こったこともあって苦境に立った。1880年にクリューガーらが主導する独立戦争(第一次ブール戦争)が始まり、1881年2月にはマジュバの戦いでイギリス軍を破るなどの優位に立ち、独立を達成した。
ローズの帝国主義思想 セシル=ローズはこの間、本国でオックスフォード大学に入学、キンバリーとロンドンを往復しながら8年かかって大学卒業の経歴を得て、1880年に27歳でケープ植民地議会選挙に立候補、当選して議員としての政治活動を開始した。このころセシル=ローズはオックスフォードでの当時の大英帝国の理念に感化され、身を以て植民地アフリカの経営、拡大にあたろうと決意したようだ。1977年、24歳の時に書いたという彼の遺書には次のような一節が見られる。
(引用)イギリスの支配を世界中に拡大すること――――言いかえれば、生活の手段が精力と労働と企業によって得られる土地を、すべてイギリス臣民の植民地とすること、とくにアフリカの全大陸、聖地一帯、ユーフラテス河流域、キプロス及びクレタ諸島、南アメリカの全部、イギリス帝国の領域に入っていない太平洋の島々、マレー半島の全部、中国の海岸及び日本、イギリス帝国の一部として欠くことのできないアメリカ合衆国を最終的にイギリスに復帰せしめること。…………イギリス領のうち、ばらばらになっている地方を結びつけるため、帝国議会に植民地代表を選出させること。さいごに、ひじょうに強力な、こんご戦争を不可能ならしめ、人類の最上の幸福を促進せしめるほど強力な、支配権を確立すること。<鈴木正四『セシル・ローズと南アフリカ』1980 誠文堂新光社 p.53-54>
 このような、今から見れば極端な思考は、ローズだけでなく、当時のイギリスの知識人、ジェントルマンに普通に見られる、「イギリス民族による文明化」を使命とする理念が現れたものだった。
 ケープ植民地議会ではセシルの並外れた財力はたちまち彼を有力議員に押し上げていった。当時の議会の議員資格は年25ポンド以上の収入があり、しかも公用語は英語に限られていたから、人口の3分の2をしめていたブール人は代表を送ることができなかった。ましてや白人以外の現地黒人には選挙権も与えられず、鉱山で過酷な労働に従事させられていた。不足する労働力はインド人移民などに依存していた。
ダイヤモンド鉱山を独占 セシル=ローズは1883年、正式にデビアス・ダイヤモンド鉱業会社の社長に就任、年収50万ポンドという南アフリカ第一の富豪になっていた。政治家としてはトランスヴァールの西のベチュアナランド(現在のボツワナ)などの併合を進めようとしたが、ブール人勢力との調整で失敗するなど、業績を上げることができず、もっぱら事業の拡大に精力を費やした。ダイヤモンド鉱山経営の好敵手ベルナトと激しい買収合戦を繰り広げ、セシルはロスチャイルド家から資金援助を受けることでそれに勝ち、ついにダイヤモンド鉱山経営の頂点に立った。そのころ、アフリカ南部にはドイツの南西アフリカ(ナミビア)侵出やフランスのアフリカ横断政策、ベルギーのコンゴ侵出などもあって、帝国主義諸国間の関係は緊張が高まっていた。帝国主義諸国は1884年~85年、ドイツ首相ビスマルクの提唱でベルリン会議を開催し、アフリカ分割に関する利害調停を行った。
金鉱山経営に進出 そのようななか、1884年にトランスヴァール南部ウィットワーテルスランド(通称ランド地方)で発見された金鉱が、大きな鉱脈であることが次第に明らかになり、1886年9月にはトランスヴァール政府が金鉱山を国有とすると宣言、企業家は地代を払って金の採掘にあたらねばならなくなり、トランスヴァール共和国はその地代に依存する寄生国家となっていった。セシル=ローズも1886年から金鉱山の経営に乗り出した。ここでも乱立した中小企業が次第に整理され、ローズの会社は中小企業を次々と吸収し、創立五年後の1891年には資本金を10倍にした。ローズの持ち株は1895年に140万株(1株1ポンド)となった(配当だけで1年70万ポンド)。

ローデシアの建設 南アフリカのナポレオン

 トランスヴァールの北方に、マショナ族とマタベリ族が暮らす広大な草原(マショナランド、マタベレランド)が広がっていた。イギリス、トランスヴァールの他にポルトガルも西のモザンビークから植民地支配を拡張しようとて狙っていた。
南アフリカ特許会社の設立 セシル=ローズはこの地に進出し、さらに北方のスーダンと連結させ、アフリカを南北に縦断する鉄道を敷設することがイギリスにとって必須であると強く意識した。しかしイギリスでは奴隷制が禁止されてから国家の直接的な植民地支配には批判的な声も起こっていたので、ローズは特許会社として開拓を進める形を取ることとし、1889年、ヴィクトリア女王の特許設立許可をとりつけ、南アフリカ特許会社を設立した。これはかつてのイギリス東インド会社の手法を復活させる試みだった。南アフリカ特許会社の事業とされた開発を進めるため、軍事力を持つことを認められた会社は傭兵隊を雇い、軍事侵略を1890年に開始、マショナ族、マタベリ族との戦闘が繰り広げられた。
ケープ植民地政府首相となる 会社の実質的責任者であったローズは、この1890年7月、ケープ植民地政府の首相に就任した。37歳のローズはこの後5年間、南アフリカの政治と経済を支配し、「南アフリカのナポレオン」と言われる。彼はケープ植民地のブール人地主層の利益を保護することで権力の基盤とした。一方イギリス政府は、ローズの南アフリカ特許会社がマショナランド・マタベレランドを制圧したことを受け、イギリス保護領であることを宣言し、周辺のポルトガル、ドイツ、トランスヴァールを牽制した。ローズはこの地が、ベルリン会議の合意事項(コンゴ盆地条約)に言う領有の条件である「実質的占領」にあたるように、次々と義勇軍という名の遠征軍を送って占領地を拡げた。さらに現地首長がドイツ人に認めた権利証を次々と買収した。
ローデシアの成立 1893年には腹心のジェームソンが遠征軍を率いて最後まで抵抗していたマタベリ族の首長ロ=ベングラを討伐することを承認、10月、マタベリ族を攻撃(この戦闘で初めて機関銃が使用された)、ロ=ベングラを殺害して制圧した。土地と戦利品は遠征隊員に分配された。本国政府はロ=ベングラとの和解を方針としていたが、ローズが本国の意図を無視して侵略を成功させると、一転して正式に南アフリカ特許会社のこの地方の政治的支配権を認め、実質的な直轄植民地とした。1895年の会社総会は満場一致で会社の統治する地域を「ローデシア」と命名することを決議、ローズはこのことを聞いて子供のように喜び、「人が自分の名にちなんだ名を名付けられた土地をもっていることは、人の誇りうる最大の名誉ではあるまいか」と述べたという。ローデシアは広さ44万4千マイルに及び本国イギリスの4倍半にあたっていた。
遊星をも征服したい 総てに順調な権勢拡張を続けたローズは、そのころ次のように述べている。帝国主義者セシル=ローズの飽くなき欲望を示した有名なセリフとなった。
(引用)地球はほとんど分割され尽くし、残されたものも分割と征服と植民をうけつつある。夜あなたが頭上に仰ぎみる星、この広い世界に私たちは到達することができたない。もし私に可能ならば、私はこの遊星をも併合したい。」<鈴木正四『同上書』p.155-156>
3C政策の提唱 セシル=ローズはダイヤモンド・金の独占企業家として、まず南アフリカ経済の支配権を握り、次にその夢を北方にのばして本国に数倍する広大な植民地ローデシアの支配者となった。この二つに加えてケープ植民地首相として150万の人民を左右するの権力を手に入れた。さらにローズは目標をかかげた。それはケープ(南アフリカ)、カイロ(エジプト)、カルカッタ(インド)を結ぶいわゆる3C政策であり、一般に彼が初めて提唱したとされている。
(引用)この世に神があるとするならば、その神はアフリカ地図をできるだけイギリスの色に塗りつぶすこと、また一方英語を話す人種の統一を促進し、その影響力をできるだけ世界に広めること、この二つを私の使命と認める神であると思う。<鈴木正四『同上書』p.132>

トランスヴァール侵略 ジェームソン侵入事件

 ケープ植民地政府首相としてのセシル=ローズの政策は、まずダイヤモンド・金の企業家の利益を守ること、農業政策ではブール人農場主・農民を保護することであり、具体的には鉄道・電信線敷設を拡張して北方のローデシアとの一体化を図ろうするものであった。そして原住民は保護ではなく隔離することが図られた。とくに原住民隔離政策は後の南アフリカ共和国におけるアパルトヘイトの源流ともいわれ、重要な意味をもった。しかし、同時に金鉱山地帯をめぐる鉄道敷設と関税問題はトランスヴァール共和国・オレンジ共和国との間で深刻な対立を見せるようになった。
トランスヴァール共和国 1894・95年はセシル=ローズの権勢は最高潮に達した。その征服欲が向かったのがケープ植民地とローデシアに挟まれたトランスヴァール共和国だった。トランスヴァールは首都ヨハネスブルクを中心とした地域に金鉱が集中していたが、その多くがイギリス資本によって経営されていた。金鉱そのものと同時に鉱山で必要なダイナマイトやセメントもイギリス資本に依存していた。トランスヴァール政府は、イギリス以外の外国資本の導入を図るようになり、たとえばセメントをドイツ、ダイナマイトをフランス資本に切り替え、さらに鉄道はオランダ系の会社に独占権を委ねた。外国資本のなかでは特にドイツ資本が目立ち、金融業にも進出した。そのような外国資本の進出をイギリスは強く警戒するようになった。一方、そのころトランスヴァール政府はブール人が優位を占め、新たに入植しようとするイギリス人などに対する国籍付与条件を厳しくしていた。このようなブール人優位のトランスヴァール政府を率いたクリューガー大統領に対して、イギリス資本を代表して交渉を迫ったのがケープ植民地首相で南アフリカ特許会社のセシル=ローズだった。また本国イギリスでは1895年に保守党ソーリズベリ内閣が発足、植民大臣にはジョゼフ=チェンバレンが就任していた。
ジェームソン侵入事件 セシル=ローズはトランスヴァール政府を屈服させ、一挙にケープ植民地に併合する口実を作る工作に着手した。その計画ではクリューガー政権に反対しているヨハネスブルクのブール人の団体、国民同盟に反乱を起こさせ、その支援を要請されたことにしてケープ植民地軍を介入させ、トランスヴァール政府を転覆させる、というものだった。その工作の実行はローズの腹心のジェームソンにやらせ、ローズが資金を提供して密に国民同盟に武器を送り、国境にケープ軍部隊を集結させ、反乱開始を待つ所まで行った。
 計画は1895年12月28日に予定され、ジェームソンは1500の兵力を国境に密かに集結させた。ところがヨハネスブルクの国民同盟は決起を渋るようになり(もともと同じブール人で政府と闘う決意は弱かった)、延期をジェームソンとローズに伝えてきた。しかし怒ったジェームソンは、事前に日付なしの支援要請嘆願書を受け取っていたので、侵入を決行すれば国民同盟も動くだろうと判断、侵入を決意した。あわてたローズは延期の電報をジェームソンに送ったがその日は日曜日だったので届かなかった。こうしたチグハグが起こるなか、1895年12月29日にジェームソンの率いるケープ植民地政府軍のトランスヴァール共和国への国境侵犯が決行された。急を聞いてトランスヴァール政府は動員令を下し、民兵制のブール軍は迅速にヨハネスブルク防衛に起ち上がり、翌96年1月1日、ジェームソン軍がヨハネスブルク近郊に達したとき逆に包囲し、翌日ジェームソン以下全員が捕虜となってしまった。ジェームソンはマタベリ族との戦争で勇名を馳せた軍人であったが、独断専行が全く失敗に終わってしまった。ヨハネスブルクの国民同盟もジェームソン軍降伏の方を聞いてすべて霧散した。このジェームソン侵入事件は、一方的な国境侵犯としてとがめられ国際問題化し、その首謀者がセシル=ローズであることは明らかであったので、非難が集中した。イギリス政府の植民省チェンバレンは事前にローズの計画を知らされていたが、南アフリカ特許会社の特許状にはそのような権限は認めれていないので反対すると伝えていた。しかしローズは今までの経験からヨハネスブルク占領が成功すればイギリス政府も追認するだろうと判断していたものと思われる。
セシル=ローズ時代の終わり この侵入事件は南アフリカ各地のブール人を激高させ、ケープ植民地のブール人も含めてトランスヴァールのクリューガー支持を叫び、セシル=ローズ非難が高まった。またアメリカ、ドイツ、フランスなどの政府も不当な国境侵犯をイギリスの責任として非難した。イギリス政府は本国政府は関係していないと表明したが困難な立場に立たされた。ローズは国民協会の嘆願書を公開(日付は何時の間にか12月28日と記されていた)して、侵入の正当性を主張したが、イギリス政府の態度は変わらず、さしもの強気のローズもこのときばかりは食事が5日間も喉を通らなかった。すでに1月2日に首相を辞任していたが、4日には南アフリカ特許会社の特別顧問も辞任した。
 セシル=ローズの時代はこの事件で唐突に終わった。このとき本国の植民相チェンバレンは、結果としてセシル=ローズを見限り、それ以後の南アフリカ情勢の中心人物となっていくが、ジェームソン事件にどの程度責任があるかは謎とされている。一方のトランスヴァール大統領クリューゲルはブール人のなかで絶大な人気を誇ることとなり、後に南アフリカ戦争で両者は対決することとなる。

南アフリカ戦争とセシル=ローズ

 ローズはその後、なおもスーダンとケープを結ぶ鉄道の敷設に動いたり、サモア問題でドイツとイギリスの仲介をしたりするなどで影響力を残していた。ケープ植民地議会でイギリス人企業家グループのため新たに進歩党を結成したが、いったん失われたブール人との信頼関係を回復することはできず、選挙で多数を占めることはできなかった。そのうちにイギリス帝国主義は新たな段階に突入、1899年10月にチェンバレンが主導して南アフリカ戦争(ブール戦争)が開始される。
 南アフリカ戦争は俗にチェンバレンとローズの合作によるものとされることが多い。たしかにローズはアフリカ征服を目標とし、ローデシアを征服し、ひとたびはトランスヴァール侵入を試みた。したがってローズを南アフリカ戦争の責任者のひとりに数えることは不当ではない。しかしそれは彼が直接この戦争に参画したという意味であればあてはまらない。もちろんローズはこの戦争を支持したが、直接には計画にも戦闘にも少しも関わっていない。しかしながら、南アフリカ戦争にはローズのとった帝国主義の思想と行動の当然の帰結であり、ジェームソン事件の後日物語であった、その意味でセシル=ローズの責任はまぬがれない。<鈴木正四『同上書』p.206-207>
 2年7ヶ月に渡った凄惨な戦争、南アフリカ戦争は1902年5月31日に講和した。その二ヶ月前、ケープタウン郊外の小屋でセシル=ローズは死んだ。49歳。彼の遺骸は彼が生前に墓所と定めていたローデシアのマトッポ山中に葬られた。彼には妻子はなく、遺言によって遺産の大部分はオックスフォード大学にローズ奨学金として寄付された。