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モノモタパ王国

アフリカ東南部の内陸、ザンベジ川・リンポポ川に挟まれた高原地帯に存在した黒人王国。ほぼ現在のジンバブエ共和国の範囲に当たる。グレートジンバブエ遺跡を中心とした文明が衰えた後の15世紀ごろ成立し、金や象牙などを海岸のソファラなどを通じてインド洋交易圏と交易して繁栄した。東部の海岸に侵出したポルトガルとも交易を行い、17世紀にはポルトガル軍の侵攻を撃退した。しかし18世紀以降は次第に多くの小国に分かれ、19世紀末に滅亡した。そのころ侵出したイギリスのセシル=ローズによってローデシアが建設された。

モノモタパ以前

 南アフリカのザンベジ川リンポポ川を北と南の境界とする、現在のジンバブエ共和国とモザンビーク共和国のあるあたりは高原地帯と草原からなるサバンナ気候帯で内陸は古くから金や銅などの資源が豊かであった。その地ではバントゥー語系のショナ人が10世紀ごろから鉄器農耕段階に入り、農耕と牛の牧畜など行っていた。東部の海岸ではモザンビークやソファラなどの海港でイスラーム商人とのインド洋交易が行われ、スワヒリ語系の文化も生まれていた。
グレートジンバブエ遺跡 13世紀ごろ、高原一帯を支配し、石積みの壁を持つ都市を特徴とするグレートジンバブエ遺跡が形成され、14世紀を最盛期として15世紀まで続いた。この遺跡には巨大な円形の石壁を持つ施設や、石造の塔、その周辺の多くの石造住居からなり、様々な鉄器や金製品、イスラーム商人との交易品と思われる中国から運ばれた陶磁器などが発掘され、高い文化を有していたが、15世紀ごろからその文化は急速に衰え、その存在は忘れ去られた。この地の植民地化を目指してヨーロッパ人が侵出した時期になった1868年に白人によって遺跡が発見されたが、その意義づけには様々な見解が出された。
注意 ジンバブエ遺跡とモノモタパ王国の関係 1497年にヴァスコ=ダ=ガマがアフリカ東海岸のソファラに寄航し、それ以来ポルトガル人が拠点を設け、内陸にある黒人王国と接触し、それをモノモタパ王国と呼び金と象牙の交易を行うようになった。ポルトガル人の記録にもジンバブエ遺跡のことはほとんど現れていないが、ずっと後の1868年にジンバブエ遺跡が発見されると、初めはそれはアフリカの黒人ではなくソロモン王やフェニキア人などの西アジアの文明の遺跡と考えられた。20世紀に入り、アフリカ人の伝承などを根拠に、ジンバブエ遺跡はモノモタパ王国の都であったとの説が出され、それはほぼ定説となって、現在の教科書にまで影響を残しモノモタパ王国は11世紀ごろから存在し、ジンバブエ遺跡はそれと関係があるという説明されるようになった。
 しかし、1980年代に考古学研究が進展した結果、現在ではモノモタパ王国はグレートジンバブエが衰退した後の15世紀ごろ、それに代わって生まれた、後継国家のひとつと考えられるようになった。つまり、グレートジンバブエ遺跡とモノモタパ王国は同一ではなく、直接的な関係はない、とされるようになった。現在もモノモタパ王国を11世紀から19世紀に存在した国家として説明している教科書も見られるが、次期改訂からは訂正されると思われる。なお、教科書・参考書によってはグレートジンバブエが栄えた11~15世紀を「前期モノモタパ王国」とし、それ以降を後期モノモタパ王国とする説明も見かけるが、現在ではそのような説明も誤りとされている。

モノモタパ王国

 「モノモタパ Monomotapa」は、ムニュムタパ、ムタパなどとも呼ばれる。もともとは王(統治者)の称号であったらしいがポルトガル人が国名と理解し「黄金の国モノモタパ」として知られるようになった。現代のジンバブエ(ショナ人)では「ムニュムタパ」と言われることが多い。最近のアフリカ史の著作や辞典類でも、「ムニュムタパ」あるいは「ムタパ」として説明されているので、用語検索では注意しよう。<吉國恒雄『グレードジンバブウェ』(講談社現代新書)ではムニュムタパ、『新書アフリカ史』の同氏執筆部分では「ムタパ」、山川出版『新版世界各国史アフリカ』ではムタパ王国、山川出版世界史小辞典ではモノモタパ、角川世界史辞典ではムニュムタパ王国、など様々である。ここでは教科書の表記に従いモノモタパとする。<以下、吉国恒雄『グレードジンバブウェ』1999 講談社現代新書/宮本正興+松田素二編『新書アフリカ史改訂版』2018  講談社現代新書>をもとに構成>
王国の範囲 現在の一般的な理解では、ザンベジ川とリンポポ川の間の金の産地であるジンバブエ高原一帯に栄えたバントゥー系ショナ人のグレートジンバブウェ国の後継者として、高原の北東部にモノモタパ王国が、南西部にトルワ国が興り、モノモタパ王国はザンベジ川下流域、トルワ王国はリンポポ川中流域の文化・交易圏を活動の舞台とした、とされている。<同上 p.101>
 ポルトガル文献ではモノモタパ王はジンバブウェといわれる「モルタルなしの石造建築物」に住んでいるとされているが、初期モノモタパ王国の本拠地であったと考えられるソンゴンベ遺跡にはグレートジンバブエ遺跡に似た石造建造物が多く見られる。<同上 p.103>
 モノモタパ王国はポルトガル文献でアンゴラから喜望峰までを支配する黒人大帝国と伝えられたが、これはまゆつばで、実際には最盛期の16世紀中頃でも本拠地は高原北東部のマゾヴェ・ルヤ川上流で版図はザンベジ川下流に限られ、その影響力の及んだ範囲も北はザンベジ川、南はサビ川、西は高原北西部、東はインド洋海岸であった。この国は帝国と言われるような中央集権国家ではなく、雑多な首長国からなる連合王国の色彩が強い。
王位をめぐる争い 王位は有力氏族の間で争われ、権力をめぐる争いは絶えなかった。血統の異なる有力氏族間や、地域的な有力者の対立が常に続き、その内紛によって王国はたびたび危機に陥った。それらの内紛はポルトガル側の文献資料に事細かに記録されている。王は「神聖王」として世襲の権威を有していたが、ある報告によると、王は前歯を失って見苦しくなったり、体が不自由になったり病気になったりすると毒をあおいで自害するという慣習があったという。<p.110-112>
金の産出 王の富の源泉は農民の畑の耕作と牛の飼育から得られる貢物のほかに、金の採掘権、象牙や猛獣の毛皮などの狩猟権を独占したことによる。金は初めは砂金採集であったがこの時代には坑道を掘って採掘していた。しかし坑内の地下水を排出する技術が無かったので、水浸しになるとその鉱山は放棄された。そのため金鉱を求めて集落が移動した。<p.108-109>
イスラーム商人との交易 イスラーム教徒の商人(その大半は地元出身のアフリカ人であったろう)がモノモタパ国に出入りし、ビーズと布をもって来て金と象牙と交換するため各所に定期的な市が開かれていた。モノモタパ王は彼らの活動を認める代わりに関税や通行税を徴収した。それが王の重要な財源となり、農民への課税制度は発達しなかった。租税制度が未発達であったため官僚制度も存在しなかった。16世紀にはポルトガル人商人がモノモタパ王国にやってきて、イスラーム商人と競いながら交易を開始した。

ポルトガルの進出と敗北

 ポルトガルはヴァスコ=ダ=ガマの第2回目とアルメイダの遠征でアフリカ東海岸の海港都市を砲撃して軍事占領し、交易権の支配に乗り出した。特にソファラは内陸のモノモタパ王国産の金などが集積する所であったので、ポルトガル人の内陸進出の拠点とされた。モノモタパ王国の存在を知ったポルトガル人は1514年頃から、神秘的な黄金に輝く王国の存在を確かめようと、ザンベジ川を遡り、熱帯の風土に悩まされながら、1535年にはセナとテテの2ヶ所に商館を築き、モノモタパ王国との取引を行った。象牙が主要な品となり、他に金、真珠、ゴム、蝋などを手に入れた。
キリスト教改宗と征服に失敗 16世紀後半にはポルトガルは沿岸部とザンベジ川流域でイスラーム勢力を追い出し、モノモタパとの交易の主導権を握ると、金の産地を直接掌握するという領土的野心を持つようになった。1560年にイエズス会宣教師ゴンサロ・ダ・シルベイラはモノモタパ宮廷に到着し、王をはじめ貴人の改宗に一時的に成功したが、翌年、反対派の巻き返しでシルベイラは暗殺され布教に失敗した。その報復として、リスボンのポルトガル王室のセバスチャン王は1569年に遠征隊を派遣、モノモタパ王国の征服を試みて内陸に迫ったが、激しい抵抗と熱病に苦しめられ、その何度かの試みはいずれも失敗した。その後も黄金を求める内陸への探検が続けられたが、ポルトガル人はニヤサ湖に達したまでで、それ以上の内陸にはすすめなかった。<ボイス・ペンローズ/荒尾克己訳『大航海時代』1985 筑摩書房 p.161-167/吉國恒雄『前掲書』>
ポルトガルへの従属 ところが17世紀にモノモタパ王国の王位をめぐる内紛が激しくなると、ポルトガルの軍事支援を受けて権力を握ろうとするものが現れ、ポルトガルはそれを利用して介入を強めた。1629年にポルトガルとの同盟によって王位についたフェリッペ王はポルトガル王の臣下となりポルトガルは荘園を所有し、現地人を使役して金の採掘に駆り立てた。<宮本正興+松田素二編『新書アフリカ史改訂版』2018  講談社現代新書 p.133-134>
ポルトガルの後退 この状態が約20年続いたが、モノモタパの一勢力だったチャンガミレが次第に台頭し、ポルトガルに反抗する姿勢を見せるようになった。17世紀末、ポルトガルは再度モノモタパ征服を試みたが、このときもチャンガミレ軍に敗れ追い払われた。チャンガミレはポルトガル商人との交易は認めたが、その領内立ち入りは許さなかった。<宮本+松田編『同上書』p.135>  こうしてポルトガルは17世紀末以降、ジンバブエ高原一帯から撤退し、再び戻ることはなかった。金鉱脈が尽きたこと、象牙も取り尽くされたことが背景にあったと思われるが、それよりもポルトガル商人の関心が黒人奴隷貿易に向いたことが大きい。ポルトガルの奴隷商人は内陸の高原よりも、ザンベジ川以北の海岸部に目を向けた。そして奴隷貿易そのものの中心が新大陸に向けてのアフリカ西海岸に移ったことによって、東海岸の交易そのものが低調となってゆき、それがモノモタパ王国自身の衰退の要因ともなったことが考えられる。
トルワ王国 ジンバブエ高原南西部にモノモタパ王国と同じ時期に、グレートジンバブエの後継国家のひとつトルワ王国があり、その王はマンボと呼ばれていた。その都とされるカミ遺跡にはジンバブエの石造建築を発展させた独自の都市文明が存在していたことがわかる。このトルワ王国も1680年代にチャンガミレに滅ぼされ、この地域は200以上の地域の首長が自立し、小国分立状態となって衰えた。
モノモタパ王国の滅亡 モノモタパ王国はさらに内戦が続き、18世紀初めには高原からザンベジ川渓谷の低地に遷都したがその力はさらに弱まり、分裂状態が強まった。1820年代には大干魃に見舞われ、さらにングニ人が北上したことで19世紀末には事実上消滅した。ングニ人の一派のンデベレ人がチャンガミレを滅ぼし、ジンバブエ高原は北部がショナ人、南部がンデベレ人によって棲み分けられ、首長に支配された小国家がモザイク状に分布する状況となった。

イギリス植民地支配と独立

 19世紀末の帝国主義諸国によるアフリカ分割が進行する中、南アフリカのケープ植民地を拠点としていたセシル=ローズは、リンポポ川以北、ザンベジ川流域を金とダイヤモンドという地下資源の豊かな地域であると見て、その地への侵出を開始した。イギリスの勢力が北上したこの地はその植民地化されローデシアと言われるようになった。セシル=ローズは、ショナ人の地域をマショナランド、ンデベレ人の地域をマタベランドとして支配した。
 ローデシアは第二次世界大戦後も白人支配が続いた。アフリカ諸地域で50年代の激しい民族独立運動が続き、1960年にアフリカの年と言われ、独立を一斉に遂げたが、ローデシアでは北ローデシアがまもなくザンビアなどとして独立したものの、南ローデシアでは白人支配が続いた。南ローデシアの白人支配層は、本国イギリスからの分離独立を主張して1965年に「ローデシア」と名乗って白人国家として独立したが、多数の黒人を少数の白人が支配するという矛盾は間もなく黒人の蜂起となって爆発し、1980年に黒人が権力を奪還した。この新たな黒人国家は自らの先祖の遺産であるジンバブエ遺跡から名をとって、ジンバブエ共和国を新たな国名とした。

参考 教科書でのモノモタパ王国

 現在の教科書、用語集では、モノモタパ王国とジンバブエ遺跡がどのように説明されているか、主なものをあげると次のようになっている。
  • 山川出版社『詳説世界史B改訂版』2019刊 「ザンベジ川の南では11世紀ごろから、金や象牙の輸出と綿布の輸入によるインド洋交易によってモノモタパ王国(11世紀~19世紀)などの国々が栄えた。この地域の繁栄ぶりはジンバブエの遺跡によく示されている。」<p.115>
     詳説世界史p.114の「16世紀の主なアフリカの諸国」では「モノモタパ王国(15~16世紀)」とあり、また「大ジンバブエ」の写真説明では「写真は18世紀に建造された神殿」と説明されており、混乱が見られる。
  • 帝国書院『新詳世界史B』2018刊 「アフリカ南東部では、バントゥー系言語を話す人々がジンバブエの石造建築群を築き、農業や牧牛を基盤として金交易などで栄えたが、15世紀末に衰退した。その後に栄えたモノモタパ王国(15世紀ごろ~19世紀)は19世紀まで金と象牙の交易を行った。」<p.37>
  • 実教出版『世界史B新訂版』2019版 「ザンベジ川流域には、ジンバブエとよばれる巨大な石造建築群がつくられ、遺跡からイランや中国製の陶器が発見されたことは、ムスリム商人との交易を物語る。ジンバブエを中心としたモノモタパ王国(11世紀から15世紀、15世紀から19世紀)は、15世紀以降に金を産出し、インド洋交易で栄えた。」<p.124>
  • 山川出版社『世界史用語集改訂版』2019刊 「11~19世紀 ショナ人が建国した王国。現ジンバブエから現モザンビークにかけての地域を版図とし、インド洋交易で栄えた。16世紀から17世紀にかけてポルトガルの圧迫を受けたのち、周辺諸民族の侵入と内紛により衰微した。」<p.81>
  • 実教出版『必携世界史用語三訂』2008刊 「11~19世紀 ジンバブウェを中心に金などの輸出で栄えた。16世紀以前を狭義のモノモタパ王国、以後をマンボ王国とよぶこともある。」<p.97>

 山川出版の詳説世界史と用語集の記述は現在も生きているようで、入試でもモノモタパを11世紀から19世紀にあてはめ、ジンバブエ遺跡との密接な関係があることを前提に出題されている問を見かける。しかし、そのような説明は誤りとして訂正されつつあり、現行教科書で言えば帝国書院版の説明が最も妥当なところとされつつつあるのが現状と言って良いだろう。
注意 モノモタパ王国はイスラーム化していない モノモタパ王国はすべての教科書で取り上げられているがジンバブエ遺跡との関係や存続した時期で修正が必要になっている。もう一つ誤解しないようにしなければならないことは、現行教科書の多くがモノモタパ王国を「アフリカのイスラーム化」の節に含めていることだ。よく読めばモノモタパがイスラーム化したとは書いてないのだが、この節の中で出てくるためそのように理解しがちである。アフリカでイスラーム化したのは(地中海岸のマグレブ諸国の他に)西アフリカのマリ王国とソンガイ王国、東アフリカのスワヒリ語圏の海港都市であり、モノモタパ王国はイスラーム商人との交易は行っていたがイスラーム化したとは言えない。なお北アフリカのエチオピアもイスラーム化していない。イスラーム教がアフリカに広がったことは重要事項だが、章立てでやむを得ないとはいえモノモタパをその中に加えることは出来ないので注意しよう。<2023/3/2記>
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書籍案内

吉國恒雄
『グレートジンバブウェ』
1999 講談社現代新書
2018 Kindle版

宮本正興・松田素二編
『新書アフリカ史・改訂新版』
2018 講談社現代新書

ボイス・ペンローズ
荒尾克己訳
『大航海時代』
2020 ちくま学芸文庫

待望久しい名著の文庫版が出た。読まざるを得まい。