ジンバブエ共和国
1980年、東アフリカの白人支配国家であったローデシアで、黒人が武装蜂起し政権を樹立し、国名をジンバブエ遺跡ににちなんでジンバブエとした。黒人政権を主導したムガベ大統領の長期独裁政権が続いた。
ジンバブエ GoogleMap
国名のジンバブエは1980年4月、ローデシアの白人政権を倒し、黒人主権を確立したとき、かつてこの地に繁栄した黒人国家の遺跡であるグレートジンバブエ遺跡に由来し、「石の家」を意味する現地ショナ人の言葉からとられた。 → ジンバブエ共和国への改称
ジンバブエの歴史
現在のジンバブエ共和国には、その前史としての長い黒人文明の繁栄の歴史と19世紀以降のイギリス植民としての苦難の歴史がある。まずその前半のグレートジンバブエの繁栄を中心とした前史を、主として吉國恒雄『グレートジンバブウェ』によってたどってみよう。<吉國恒雄『グレートジンバブウェ』講談社現代新書 Kindle版>鉄器農耕文明の形成 南アフリカの一角、ザンベジ川とリンポポ川を南北に区切られた内陸のジンバブエ高原とその周辺の低地には、紀元前後頃にバントゥー語系の農耕民であるショナ人が移動してきて鉄器農耕社会を形成し、10世紀中頃に幾つかの小国家が生まれた。彼らの産出する象牙や金は東海岸のソファラに運ばれ、イスラーム商人との交易品となっていった。1075年頃、リンポポ川渓谷に現れたマプングブウェ遺跡は南アフリカ最初の本格的な都市と王国がうまれたことを示している。1150年から100年ほど続いたマプングブウェ国は石積の壁を持つ住居や、金の交易を示す遺品など、後のジンバブエ遺跡につながる要素を有していた。しかし13世紀になるとこの国家は急速に衰退した。金の交易ルートの変化や乾燥化の急速な進行などの原因が考えられる。
グレートジンバブエ マプングブウェ国に代わって13世紀になってジンバブエ高原の南端に新たに登場したのがグレートジンバブエ遺跡である。このグレートジンバブエ国は1250年までに人口が増大し石の壁を持つ都市が急速に繁栄した。その理由はこの地が金の産地とソファラの中間にあり、金のインド洋交易の面で有利であったこと、高原にあったことで乾燥化の影響を受けず、牛の飼育により適していたこと、またツェツェ蠅の猛威がない土地であったことなどであろう。さらに住居や都市の壁に使う石材が得やすかったことも考えられる。グレートジンバブエは14世紀に最盛期を迎え、最盛期で家屋数約6000、 人口約18000人を擁した。グレートジンバブエは南アフリカに広範な支配を及ぼし、インド洋交易も行って繁栄していたが、15世紀前半に急速に衰え、その文明は同じショナ人の二つの国家、北方のザンベジ川南岸・高原北東部のモノモタパ(ムニュムタパまたはムタパ)王国と、南のリンポポ川流域・高原南西部のトルワ王国に継承された。
モノモタパ王国 モノモタパ王国はアフリカ東海岸のスワヒリ人と争いながら次第に東進し、ソファラを征服してモザンビーク島にも達した。1505年にソファラに最初の要塞を築いたポルトガル人は、金と象牙を求めて内陸に進出しようとしたが、そのとき最初に接触したのがこの王国であった。その王をムニュムタパといったが、ポルトガル人はそれを「モノモタパ」と聞き取り、最初からこの地を支配していたと理解して本国に報告した。ポルトガル人の伝えたモノモタパ王国は、西欧諸国にもその存在が知られるようになった。正確には「ムタパ王国」ともいうべきこの王国の都はまだ正確にはわかっていないが、グレートジンバブエの崩壊の後の15世紀に出現した。モノモタパ王国はアフリカ東海岸に現れたポルトガル人とも交易を行い、16世紀には全盛期となってジンバブエ高原からザンベジ川一帯にかけてを支配したが、17世紀以降は内紛が続いて衰退した。それでも19世紀終わりまで命脈を保っていた。
トルワ王国 高原の南にあったトルワ王国は1450年頃にジンバブエの伝統の石造建造物の文化を継承して成立した。その中心のカミ遺跡は中央の丘に王とおそらく霊媒師のものと思われる居住区があり、家畜の囲い場所、寄合の場所などが見られ、王はマンボといわれたのでこの丘は「マンボの丘」と言われ、ゆったりとした曲線をもつ石積みの段々にテラスが幾重にも築かれている。このマンボの丘を中心としたカミ遺跡は、ジンバブエのもう一つの世界遺産として登録されている。カミ以外にも、ダナンゴンベやナレタレにトルワ王国の石造建造物群が残されている。
チャンガミレ・ロジの征服 ショナ人の族長チャンガミレはもとはモノモタパ王に仕える牛の監督官だったという。1684年にポルトガルに対する攻撃を仕掛け、モザンビーク総督派遣のポルトガル軍と戦い、後退させて勇名をはせ、さらにモノモタパ王に反旗をひるがえして勝ち、人呼んでロジ(破壊者)となった。1680年代のうちにトルワ国も征服し、チャンガミレは短期間にジンバブエ高原南西の支配者となった。1693年、モノモタパ王はポルトガル人の干渉に対してチャンガミレに援軍を要請すると、チャンガミレは再びポルトガルと戦い、その拠点を襲撃して商人や牧師を含むポルトガル人を殺害した。その後、チャンガミレは一種の軍事専制国家として常備軍を有し特異な存在となったが、18・19世紀の南アフリカに登場する武装国家のさきがけでもあった。
ヨーロッパ諸国の進出 ポルトガル人は1510年にケープ地方の牧畜民コイコイとの戦争に敗れたため南アフリカから後退し、17世紀前半にはオランダ東インド会社がポルトガルから東洋貿易の権利を奪い、1652年に東洋貿易の寄港地としてケープ植民地建設に着手、オランダ農民でケープタウンに移住するものが増えていった(その子孫がブール人)。1795年にイギリスがケープ植民地を占領し、イギリスの南アフリカ植民地化が開始されたが、ポルトガル人による黒人奴隷貿易はモザンビークを拠点として続いており、ジンバブエなどの内陸の黒人も、モザンビークからブラジルなどに運ばれていった。<宮本正興+松田素二編『新書アフリカ史改訂版』2018 講談社現代新書 p.114-134>
黒人奴隷貿易の時代へ 1700年頃から東南アフリカ世界では大国家の形成の動きはなくなり、ショナ人による200あまりの小国家に分かれるという状況が現れた。これが植民地化する直前の状況だった。かつてのグレートジンバブエ遺跡やカミ遺跡に見られた「石の家」といわれた石造建造物の文化は消え、住居も衣服も質素になった。その背景には、南アフリカ社会と密接な関係にあったポルトガル自身の重商主義的活動が低調となったことが考えられる。その背景にはアフリカ側では金の産出が減少し、象牙が乱獲のために減少したこともあげられるが、アフリカとヨーロッパが金や象牙などの奢侈品交易で結びついていた時代が終わり、黒人奴隷貿易を媒介した関係に転換したことが考えられる。
イギリス植民地ローデシア
19世紀の後半、イギリス帝国主義は世界各地に植民地を獲得していった。このアフリカ分割の過程で、アフリカ南部の現在のジンバブエ一帯には、セシル=ローズが経営するイギリス南アフリカ会社が侵出、1890年頃までに植民地ローデシアが建設された。ローデシアは豊富な地下資源と人的資源をもつ植民地としてイギリスの経済成長を支えたが、白人支配のもとで無権利な黒人に対する搾取が続いた。第二次世界大戦後の1950年代、アフリカ民族主義が高揚し、アフリカの年といわれる黒人国家の独立が続いたが、ローデシアでは1964年に北ローデシアがザンビア共和国とマラウィ共和国として独立した。しかし南ローデシアでは白人支配が続き、白人支配者層は本国イギリスの妥協的な政策に反発し、1965年に本国の意向を無視してローデシアとして独立した。少数の白人支配者は南ア連邦と同じアパルトヘイト政策を続け、黒人の権利を無視し続けたため、国際的にも批判を浴びることとなった。
Episode 蘇る霊媒師の力
1890年代、ジンバブエのマショナランドで「チムレンガ」(民衆蜂起)が起こった。それは二人の霊媒師によって指導されていた。民衆蜂起は鎮圧され男性霊媒師のカグビは死刑執行の直前、カトリックの洗礼を受け入れたが、女性霊媒師のネハンダ(ライオン霊)は植民地政府が強要する洗礼をあくまで拒否、踊り狂い、敵を罵倒し、「肉体は滅びようとも、骨が起ち上がる」と徹底抗戦の叫びを上げて命絶えたという。この時のネハンダは小柄で丸ぽちゃ、三〇代半ばだった。それから八〇年が経過し、白人支配のローデシア政府に対する独立戦争が展開された1970年代、ネハンダの霊が八〇代の老女にとりついた。老女は何代目かのネハンダを名乗り、ゲリラ兵に独立闘争の戦術を授けた。ジンバブエの現代史においては、彼女の名にちなんだ「ネハンダ解放区」が残されている。<宮本正興+松田素二編『前掲書』 p.715-716>ジンバブエ共和国への改称
ジンバブエ国旗
黒人政権は、1980年4月18日に国号を「ジンバブエ共和国」に変更したが、これは白人植民地支配を引き継ぐローデシアという国名を棄て、自らの民族遺産であるジンバブエ遺跡の名前である「石の家」を意味する「ジンバブエ」をとりいれたものであった。国旗に描かれている鳥形の図柄は、グレートジンバブエ遺跡から発掘された石造物をもとにしている。
ムガベ大統領の超長期政権
1980年、黒人政権の成立、ジンバブエ共和国への名称変更を指導したのはロバート・ムガベで、彼は1924年生まれ、1860年代から白人政権に対する抵抗運動を続け、ジンバブエ・民族同盟の指導者として活動、総選挙で圧倒的な支持を受けて初代首相に選出された。1987年には大統領に就任、その後2018年までその地位にあった。首相就任から数えれば、38年間政権の座にあり、退任したときには94歳になっていた。ムバベは世界最長の独裁政権、世界最高齢の大統領としてその名を残すことになった。就任当初は、白人と闘い黒人の独立国家の樹立を実現した指導者として特にアフリカにおいては高い評価を受け、アフリカ統一機構やアフリカ連合の議長も務めた。また若い頃にはマルクス主義を学び、一時期は毛沢東思想に強く影響を受けたと言われ、社会的平等の実現、経済格差の解消、教育の普及などに努め、幅広い国民の支持を受けていた。また当初は白人とも融和的で、ジンバブエ経済の近代化にも積極的に勤め、80年代~90年代には「ジンバブエの奇跡」といわれるほど、安定した成長を実現した。しかし、政権が長期化するに伴い、政権交代を望む声も強くなったが、ムガベはその地位を手放そうとせず、独裁的になっていった。
ジンバブエの混迷
1980年代の解放の後も広大な土地が白人農場主が残っていたが、2000年に黒人の中にその完全な解放を要求する運動が起こり、黒人農民が白人の農場を占拠するという問題が持ち上がると、ムガベ大統領はその行動を支持し、大統領交代を要求する野党勢力の弾圧を行った。その後も大統領選挙に出馬を続け、選挙で当選するという事が繰り返されたが、野党は選挙そのものが不正であると批判した。また旧宗主国であるイギリスでも、ムガベ大統領の強権的な姿勢、不正選挙による権力維持などが明らかになると次第に非難が強まり、ヨーロッパ各国はイギリスに同調し、ムガベに入国禁止などの措置を取った。しかし、アフリカ諸国の首脳の多くはムガベを支持し、国際世論も分裂した。
2017年11月、ムガベ自身が足腰が不自由になっているにもかかわらず大統領選挙に出馬するという姿勢をみせたことに対し、後継を狙っていた副大統領の支持基盤である国防軍がクーデタを起こし、ムガベは遂に退任を認め、病気治療を理由にシンガポールに移り、その地の病院で2019年9月に死去した。<2023/3/2記>