アフリカ縦断政策
19世紀後半、イギリスがカイロからケープタウンまでのアフリカ縦断ルートを支配しようとした帝国主義政策。
イギリスのアフリカ侵出
イギリスがスペイン継承戦争で勝利した結果、1713年のユトレヒト条約で、アフリカからスペイン領アメリカ新大陸に黒人奴隷を運ぶ奴隷供給契約(アシエント)をフランスから獲得した。それによってイギリス商人の主としてアフリカ西海岸での奴隷貿易が盛んに行われるようになり、本国とアフリカ、新大陸を結ぶ三角貿易は18世紀を通して行われてイギリス産業革命の原資を生み出した。産業革命が進行して資本主義が形成された19世紀には、イギリスはさらに経済圏の拡大をめざし、まずケープ植民地をオランダから奪取した(1814年のウィーン議定書で認められる)、ついでエジプト-トルコ戦争(1833,1839)に介入してエジプトに進出した。19世紀末の帝国主義段階になると、ウラービーの反乱を機にエジプトを保護国化し、さらに南下してスーダンに進出してマフディー教徒の反乱を鎮圧した。
アフリカ縦断政策
イギリスは植民相ジョゼフ=チェンバレンのもとで、エジプトのカイロと南アフリカのケープタウンをむすぶアフリカ縦断鉄道の建設をめざしてアフリカ縦断政策をとり、1898年にはアフリカ横断政策をとるフランスとファショダ事件で衝突した。南アフリカの制圧
アフリカ南端のケープ植民地のイギリス人は、ケープ植民地首相セシル=ローズによる植民地拡大を進め、北方のブール人(オランダ系入植者の子孫)を圧迫し、さらにベチュアナランド(現ボツワナ)、ローデシア(現ザンビアとジンバブエ)を獲得した。セシル=ローズは1896年に失脚したが、1899年、植民地相チェンバレンはブール人との南アフリカ戦争に踏み切った。その結果、ブール人からトランスヴァール、オレンジ自由国などを獲得して1910年南アフリカ連邦に編入した。その他のイギリス殖民地
イギリスが支配したアフリカ植民地は、西アフリカで黄金海岸(現ガーナ)、ナイジェリアなど、東アフリカで英領ソマリランド、ウガンダ、ケニアなどである。 → アフリカ分割