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聖像禁止令

726年にビザンツ帝国レオ3世が出した聖像の使用を禁止する法令。ローマ教皇が反発しキリスト教の東西対立の端緒となった。ビザンツ帝国では8~9世紀、聖像破壊が行われた。

 726年ビザンツ帝国の皇帝レオン3世(レオ3世)が発布した、教会において聖像を崇拝することを禁止し、それを破壊することを命じたもの。聖像破壊令、偶像禁止令とも言う。それによって各地で聖像破壊運動(イコノクラスム)が起こった。レオン3世の直接の動機は不明であるが、イコンなどの偶像を否定するイスラームに対抗するため、キリスト教の原則に戻ることを目指したとも推定されており、また反対する教会・修道院領の没収が狙いだったとも言われている。

聖像とは

 キリスト教の信仰のためにつくられた、イエスやマリア、その他の聖人の像。ローマ教会でも東方教会でも、さかんに聖像の立体像や、イコンといわれる画像が作れられた。キリスト教の根本の教えは偶像崇拝を否定しているので、それは偶像として「崇拝」するものでなく、聖なるものの代わりとして「崇敬」されるものとされた。しかし、聖像を崇敬することの是非をめぐって論争がつねにあった。また、ビザンツ帝国では、イスラームの攻勢を受ける中で、徹底した偶像崇拝否定であるイスラーム側からたびたび嘲笑される事態がうまれていた。そのため、ビザンツ帝国内の東方教会の聖職者の中で、聖像を認めるか否定するかという「聖像崇拝論争」が起こった。その問題に決着をつける形で、726年に聖像禁止令が出されると、各地で聖像破壊運動(イコノクラスム)によってイエスやマリアの像が壊されるようになり、それは西方教会にも及んでいった。

聖像禁止令の経過と背景

 ビザンツ皇帝レオン3世はシリアの出身で、もともと聖画像を崇敬(崇拝ではない)する習慣がなかったらしく、ビザンツ帝国でもシリアや小アジアの教会の主教たちの聖画像への反発に動かされたという面があったらしい。始まりは小アジアの主教の二人がコンスタンティノポリス総主教にイコン崇拝の弊害を訴えたが、総主教がはそれを受け入れなかった。しかし二人の主教の訴えはかねてからイコン崇拝に疑問を持っていたレオン3世の支持するところとなり、レオン3世は726年に首都の宮殿のカルケ門からキリストのイコンを軍隊に命じて撤去させた。ここから聖像破壊運動(イコノクラスム)が始まると、レオン3世は730年にイコン擁護派の総主教を罷免し、イコン反対派アナスタシオスを任じた。
 ローマ教会はすぐに反発し、ローマ教皇はビザンツ皇帝に教会に介入しないことを勧告、イコン反対派の総主教らを破門とした。対抗してレオン3世は南イタリアやシチリア、東部のイリュリクムなどのローマ教皇の管轄権をコンスタンティノポリス総主教管轄に移管させた。しかしそのころイリュリクムはすでにアヴァール人が侵攻しており、ブルガリア王国も拡大しつつあったので、ローマ側のダメージはさほどではなかった。<久松英二『ギリシア正教 東方の知』2012 講談社選書メチエ p.44>

聖像禁止令のねらい

 レオン3世が聖像禁止令を出した直接の契機は、小アジアでイスラーム軍と戦って勝利したとき、小アジアの農民から、イスラーム教に対抗するにはキリスト教も本来の偶像否定を徹底しなければならないという訴えを受けたからであったが、ねらいは別のところにあった。それは教会や修道院の所有地を没収すると言うことだった。当時、ビザンツ帝国内の教会と修道院は寄進された土地を持ち、その土地には課税されず、その住民を国王が兵士とすることも出来なかった。イスラーム軍の侵攻を受けて財政が苦しく、兵士を確保したいビザンツ皇帝は、教会・修道院から土地と領民を取り上げようと考え、聖像禁止令を出し、それに従わなければ土地・領民を没収するとした。つまり、軍隊の基礎である自由な小農民層を育てるため、免税特権をもつ教会・修道院の大所領発達を抑える目的を持っていた。<堀米庸三『世界の歴史3 中世ヨーロッパ』1961 中央公論社>

Episode 「糞」と呼ばれた皇帝

 歴代ビザンツ皇帝でいちばん評判の悪い人物はコプロニュモスとあだ名されたコンスタンティノス5世(741-775)であろう。コプロスというのはギリシア語で「糞」の意味。何故そんなあだ名がついたかというと、ある年代記によると、生まれてすぐ洗礼を受けたときに聖なる洗礼盤に大便をして汚したからだという。しかし評判が悪いのは彼が聖像崇拝禁止を最も厳しく実行したことにある。禁止令を出したレオン3世の息子だった彼は皇帝になると、イエスやマリアの聖像を崇拝することをいっさい許さず、徹底的に偶像崇拝を取り締まった。
(引用)皇帝の攻撃は聖像崇拝をあくまでも主張した修道士たちに向けられた。ある者はその髪に油や蠟を塗られ、それに火をつけられて、顔と頭を焼かれた。目をくりぬかれた者も少なくなかった。鞭打ちで済んだ者は運がいい方であった。特に有名なのは、山の修道院で六十年も孤独の修行を積んでいた修道士ステファノスの殉教である。皇帝の聖像破壊に反対した彼は、修道院から力ずくで引きずり出され、見せしめのために都の街路で処刑された。手足を一本ずつ切りとられて、最後に胴体が道端に掘られた穴の中に投げ込まれたという。<井上浩一『生き残った帝国ビザンティン』1990 講談社現代新書 p.132>
 彼はイスラームとの戦いで勇敢に戦い、皇帝として劣っていたわけではない。聖像崇拝者に対する弾圧は、偶像崇拝は十戒にもあるようにキリスト教徒としては最も誤ったことだいう固い信念からの行いだったのであろう。しかし、後に聖像崇敬が復活するとコンスタンティノス5世は「糞」皇帝とまで罵られてしまうことになったのだった。

ローマ教皇の反発、国際問題化 

 だからこの法令は教会側に拒否されることを想定して出している。ところがこの聖像禁止令は全キリスト教世界に大きな動揺と混乱をもたらし、「聖像崇拝論争」は東西教会の対立に発展してしまった。ローマ=カトリック教会では、ゲルマン人への布教のため、聖画像を用いてたため、この聖像禁止令に激しく反発し、聖像破壊者を破門にした。ビザンツ皇帝は、北イタリアのランゴバルド王国をてなずけてローマ教会に圧力を加えた。こうして東西教会の対立は激しさを増してゆき、コンスタンティノープル総主教座を中心とした東方教会はギリシア正教(正教会)となっていく。

ローマ教皇とフランク王国の提携

 ビザンツ帝国・ランゴバルド王国に圧力を加えられたローマ教皇は、フランク王国に新たな保護を期待し、739年にフランク王国に提携を申し込んだ。だが当時イスラーム軍の侵入を撃退するのにランゴバルド王国の支援を受けていた宮宰カール=マルテルはそれを受けず、この時は提携に失敗した。しかしその後、カール=マルテルの子ピピンがカロリング朝を立てるときにローマ教皇の承認を求め、その見返りにランゴバルド王国から奪ったラヴェンナを教皇に寄進したことから関係が強まり、ついに800年のカールの戴冠に至るのである。このようなローマ教皇とフランク王国の提携の背後には聖像禁止令でビザンツ帝国との関係が悪化したことがあった。

聖像破壊運動の収束

 ビザンツ帝国では、レオン3世の次のコンスタンティノス5世がさらに強い聖像禁止を実施し、違反者に厳しい弾圧が加えられた。あくまで聖像崇拝をつづける修道士は捕らえられ、765年には見せしめに公開で処刑され修道士が殉教する事態となった。しかし、イコンとイコンを崇敬する人々を根絶やしにすることは出来ず、ようやく収束に向かった。
 10歳でビザンツ皇帝となったコンスタンティヌス6世の摂政となって実権を握ったその母のイレーネはイコン擁護派であったので、総主教に擁護派を任命するなど態勢を立て直し、787年にニケーアで第7回の公会議を召集した。その会議によって聖像破壊運動を否定して破門され、運動は一応収束した。
 その後のビザンツ皇帝でも聖像禁止を復活するものが現れ、再び弾圧が行われたが、9世紀に入ると教会側の巻き返しによって聖像を認める動きも出てきた。843年には皇太后テオドラは破壊派の総主教を罷免し、ハギア=ソフィア大聖堂で教会会議を開き、イコン崇敬の復活を宣言した。その結果、レオン3世とコンスタンティノス5世はこんどは教会を弾圧した暴君と評価されるようになってしまった。
 ただしギリシア正教での聖像は、立像は認められず、イコンという平面の聖像のみが認められた。これによって聖像崇拝問題は解決したが、その結果、教会・修道院の領地はそのまま残されることとなり、レオ3世の目指した国土の統一的支配は頓挫し、以後のビザンツ帝国では、一時マケドニア朝の隆盛を迎えるが、その後は急速に封建化していく。 → キリスト教会の東西分裂
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久松英二
『ギリシア正教 東方の知』
2012 講談社選書メチエ

井上浩一
『生き残った帝国ビザンティン』
1990 講談社社学術文庫