ユーグ=カペー
西フランクのカロリング朝断絶の後、王位につきカペー朝フランス王国を開始。
987年、フランスのカペー朝の始祖となった。もと西フランク王国の一地方領主であるパリ伯であったがその祖のネウストリア公ロベール家のウードはセーヌ川、ロワール川両河の間に基盤を持ち、ノルマン人の侵攻を撃退したことで名声を上げていた。西フランクのカロリング朝が途絶えた時、有力諸侯からロベール家のユーグ=カペーが王位に選出された後、王権を安定させるために生存中に長子を後継者に指名し、あらたな世襲王朝のカペー朝が始まった。またこの時から西フランクはフランス王国と言われるようになる。
Episode カペーはあだ名
ユーグ=カペーはもともとロベール家の当主だった。ロベール家はもとはライン川中流を基盤とし、ロルシュ修道院の創建に加わった貴族であったが、840年にロワール川河口のアンジェで伯となり、トゥールのサン=マルタン修道院の院長職も兼ねた。866年にはロベールはヴァイキングと戦って戦死した。その子ウードは20年後にヴァイキングからパリを救った英雄として、カロリングの血統以外で初めて西フランクの国王(在位888-898)となったが、その死後、王位は再びカロリング朝に戻った。そのウードの甥のユーグは「フランキア大公」と称され、セーヌ・ロアール間に20の伯領と主要な修道院長職を一手に納めていた。このユーグの子がユーグ=カペーである。987年、カロリング朝のルイ5世が狩りの途中に落馬し脇腹を痛打し、血を吹いて死んだ。ルイには子供がなかったので、聖俗の貴族は王国会議を開き、ランスの大司教の大演説でユーグが国王に選出された。カペーというのはあだ名で、俗人修道院長が羽織った短い外套を意味する。<福井憲彦編『新版世界各国史』12 2001 山川出版社刊 p.78-83> 彼が有力な封建領主のひとりであり、俗人で修道院長を兼ねていたことは、中世の国家を考える際に覚えておいて良いだろう。Episode カペー家の血統は今に続く
その後のヴァロア朝とブルボン朝もカペー家の傍系から出ているので、ユーグ=カペーの血統は実にフランス革命で処刑されたルイ16世まで続く。ルイ16世は王位を追われた後はルイ=カペーと言われた。さらにブルボン家の血筋はフランスでは復古王政が倒れ、シャルル10世の直系は消滅した(ルイ=フィリップのオルレアン家は続いており、王党派の生き残りがごく少数いるらしい)が、スペインではブルボン朝が続き、第2次世界大戦前後のフランコ時代には中断したが、現在のスペイン王家として返り咲いているので、現代まで続いていると言うことが出来る。