西フランク
843年、フランク王国が分裂して生まれた国で後のフランスのもととなった。
ヴェルダン条約でシャルル(カール)2世(禿頭王)が継承した、フランク王国の西部を占める地域。後のフランスの原型となる。メルセン条約で中部フランクの西半分をさらに加えた。
911年、西フランク王シャルル3世はノルマン人を率いて侵攻してきたロロにキリスト教への改宗を条件にセーヌ河畔への定住を許さざるをえなかったが、その地がノルマンディー公国となる。
この間、西フランク国王の権威は低下し、ブルゴーニュ公、アキテーヌ公、ノルマンディー公、プロヴァンス伯、フランドル伯など有力な封建領主がそれぞれ従士団を率いて分立するようになった。これを領邦権力とも言う。領邦君主や司教はカロリング家の王位世襲をやめさせ、一時選挙王制にしたが、987年にノルマン人の撃退に功績のあったロベール家の出身のユーグ=カペーが世襲王朝のカペー朝をひらいた。カペー朝の開始から、フランスといわれるようになる。
ノルマン人の侵攻
9世紀には、フランク王国の分裂に乗じて、ノルマン人(イギリスで言うヴァイキング。西フランクでは北方の人の意味でノルマンといった)はスカンディナヴィアから海を渡って西フランクの海岸を荒らし、さらにセーヌ川やロワール川をさかのぼって内陸に侵攻を開始していた。西フランクのシャルル2世は領土の防衛に努め、後のフランス国家の基礎を築いた。911年、西フランク王シャルル3世はノルマン人を率いて侵攻してきたロロにキリスト教への改宗を条件にセーヌ河畔への定住を許さざるをえなかったが、その地がノルマンディー公国となる。
この間、西フランク国王の権威は低下し、ブルゴーニュ公、アキテーヌ公、ノルマンディー公、プロヴァンス伯、フランドル伯など有力な封建領主がそれぞれ従士団を率いて分立するようになった。これを領邦権力とも言う。領邦君主や司教はカロリング家の王位世襲をやめさせ、一時選挙王制にしたが、987年にノルマン人の撃退に功績のあったロベール家の出身のユーグ=カペーが世襲王朝のカペー朝をひらいた。カペー朝の開始から、フランスといわれるようになる。