永楽帝のベトナム遠征/明のベトナム支配
明の永楽帝は明軍をベトナムに派遣、1407年に胡朝を倒してその北部(安南)を直轄領とした。しかし、ベトナムの抵抗は激しく、黎利による反明闘争が始まり、永楽帝の死は明は直接支配から撤退した。
ベトナムでは10世紀に中国の支配を脱して独立の気運が高まり、1009年に大越国の李朝の時、独立を達成し、紅河下流のデルタ地帯を中心に現在のベトナム北部を支配し、昇竜(現在のハノイ)を都として繁栄していた。ベトナム中部にはチャンパーとは抗争を続けていた。1225年に李朝に代わって成立した陳朝は、元のフビライの三度にわたる元のベトナム遠征軍を撃退し、独立を守った。
明の安南支配
1400年に陳朝で紛争が起こり、胡朝が成立したのをうけ、明の永楽帝は1406年、陳朝を救援することを口実に大軍を送り、翌1407年に胡朝を滅ぼしてベトナム北部を征服した。こうしてベトナム北部は再び中国の直接支配下に入り、中国ではこの地域を安南と呼び、明は布政司などの地方官を置いて直接統治を行おうとした。ベトナムの抵抗と独立回復
しかし、ベトナムの北部は、かつてモンゴル軍の侵攻を三度にわたって撃退した経験があり、長く独立国家であったので、明の支配に対する抵抗は厳しく、その統治は容易ではなかった。1418年には黎利(レ=ロイ)を指導者とする反明闘争が始まり、1424年に永楽帝が死去すると、ベトナムの反乱は活発となり、27年に明軍の守るハノイを総攻撃した。1428年に和議が成立して明は安南の直接統治から撤退、黎利はハノイで即位して都の名を東京と改め、大越国を再興し、黎朝を創始した。明は黎利を安南国王に封じるという形式を取り、朝貢貿易を続けることを条件に、実質的な独立を認めた。