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黎朝

ベトナムの大越国の王朝。1428年、明の支配から自立、15世紀後半に繁栄する。16世紀からは有力武将が台頭して王権は衰え、1789年に滅亡した。

 15~18世紀のベトナムの王朝。国号は大越国。都は東京(トンキン)と称した現在のハノイにおかれた。途中、武将に王位を奪われた時期があり、その前後で、前期黎朝(1428~1527年)と後期黎朝(1532~1789年)に分けられ、前期黎朝は明とも朝貢関係を保ち、中部ベトナムのチャンパーに出兵するなど、国力は安定していたが、後期黎朝は有力武将が割拠し、事実上の内乱状態に陥った。なお、ベトナム史では、李朝の前に短期政権であった黎朝(981~1009年)があるので、それを前黎朝とし、こちらを後黎朝という場合もある。

明からの独立

 明は1406年胡朝がベトナム大越国の王位を奪ったことに対し、陳朝の復興を支援するという口実で永楽帝がベトナム遠征軍を派遣し、胡朝を倒し、ベトナムを実質的な支配下に収めた。明は府州県制を布き、ベトナムの伝統を否定して中国風の制度、文化を強要した。そのため、まもなくベトナム民衆の反明感情が強まり、それを組織した地方豪族の黎利(レ=ロイ)が1418年に挙兵して明軍を破り、独立を回復することに成功した。始めは陳朝の王を担いだが、その王が自ら退いたため、1428年に黎利が王位に就き、明もそれを承認して黎朝の成立となった。このとき、都昇竜(ハノイ)を東京(トンキン)と改めた。

政治の安定とベトナムの南進

 独立を達成した後の黎朝は明に対して朝貢を開始して良好な関係を結び、その制度や文化を取り入れ、科挙制度や儒学の興隆に力を入れた。15世紀後半の聖宗の時には黎朝の統治も安定し、ベトナム人が屯田兵として中部ベトナムにも進出していった。1471年にはチャンパーの首都ヴィジャヤを占領して事実上滅亡に追いこんだ。

後期黎朝の内乱

 しかし、16世紀には短命の国王が続いて次第に王権が衰え、有力な武将が実権を握るようになった。有力武将の莫氏が王位を奪うなどの混乱が生じ、17世紀には都昇竜(ハノイ)を押さえた鄭氏と、中部ベトナムのフエを本拠とした阮氏がベトナムを南北に二分して争うようになった。この間、フエの阮氏はしきりに「南進」の勢いを示し、17世紀の始めからメコン=デルタ地帯に進出、クメール人に代わって耕地を広げていった。1698年にはサイゴンがベトナム人の手に渡った。
 黎朝は形式的には鄭氏政権の下でハノイで存続し、1773年に西山の乱(タイソンの乱)が起こった時、清の支援でその鎮圧を図ったが失敗し、1789年に滅亡する。
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