天正遣欧使節
1582年に長崎を出発した九州のキリシタン大名がローマ教皇に派遣した少年使節。1585年にローマ教皇に謁見。1590年に帰国を果たした、日本はキリスト教禁止に転換していた。
Source: Wikimedia Commons (Public Domain)
この絵は、1586年にドイツのアウグスブルグで印刷された、天正遣欧使節の肖像画。"Newe Zeyttung auss der Insel ]aponien"(日本島からのニュース)と題されている。右上・伊東マンショ、右下・千々石ミゲル、左上・中浦ジュリアン、左下・原マルチノ。中央は案内兼通訳のメスキータ神父。(出典:『京都大学の学術情報基盤の未来を考える』)
1585年 ローマ教皇に謁見
使節4人はヴァリニャーノらに付き添われ、1582年2月に長崎を出航、マカオ・マラッカ・ゴア(ヴァリニャーノはゴアで下船)を経て、喜望峰を回り、84年8月ポルトガルのリスボンに到着した。天正遣欧使節はスペインの国王フェリペ2世、イタリアのトスカナ公国(フィレンツェ)のフランチェスコ1世に謁見、歓迎を受け、1585年3月ローマ教皇グレゴリウス13世に謁見した。グレゴリウス13世はまさに対抗宗教改革を進めている最中であり、グレゴリウス暦を制定したことで知られる。ローマ教皇が日本からの少年使節を謁見したことはヨーロッパ各地に報じられ、日本の正装で現れた少年使節がラテン語で九州諸大名の奉書を読み上げたことは大きな反響を呼んだ。地球の裏側から現れた異人種が、教皇の徳を称えたことは、ローマ教皇の威信が世界中に及んだこととして宣伝されるに十分な材料を与えた。使節はその後もヴェネツィアなどを訪れ、歓迎を受けた。
帰国後の苛酷な結末
帰りも約半年、東アフリカのモザンビークで足止めを食らうなど、苦難に満ちた航海の末、1590年、長崎に帰着した。しかしこの間日本は豊臣秀吉が政権を握り、1587年にバテレン追放令を出してキリスト教の禁止に転じていた。4人の少年使節も秀吉に謁見し、バテレン追放令の解除を願い出たが、秀吉の意志は変わらず、使節たちのその後は過酷な運命にほんろうされることとなった。伊東マンショは宣教師となって活動したが若くして病死し、千々石ミゲルは棄教、原マルチノはマカオに追放され、中浦ジュリアンは殉教した。<松田毅一『天正遣欧使節』講談社学術文庫 1977>NEWS 天正少年使節のニュースが続く
天井裏から天正少年使節 2016年8月13日の新聞各紙によると、ローマの旧家の屋根裏から、天正少年使節が1585年にグレゴリウス13世に謁見した様子を描いたフレスコ画が発見されたという。発見されたのはグレゴリウス13世の子孫の邸宅で、絵は19世紀半ばに画家ピエトロ=ガリアルディが制作、改築の際に天井裏に隠れ、存在が忘れられていた。伊東マンショらの少年が着物を着て親書を携え、中国風の髪型をしている。絵が描かれたのは日本が開国したころで、日欧関係の端緒はグレゴリウス13世だったと言うことを示すために、その子孫が描かせたのではないか、と研究者は言っている。写真は天井裏に小型カメラを入れて撮ったものなので、その全体像ではなく、伊東マンショらの風貌はよくわからない。
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