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マラッカ王国/マラッカ

14世紀末にマラッカ海峡に面したマレー半島とスマトラ半島にまたがる地域に成立したイスラーム教国。港市国家としてインド洋・南シナ海の海上交易で栄えた。1511年、ポルトガルによって占領され、国王はマラッカからジョホールに逃れた。

マラッカ王国

マラッカ王国地図
マラッカ王国の範囲
<永積昭『アジアの多島海』世界の歴史13 1977 講談社 p.121>
 マラッカはマレー半島マの南西部の海港としてインド洋と南シナ海を結ぶ海の道の要衝であった。建国神話(『マラヤ編年記』)によると、その始祖はアレクサンドロス大王の血を引いており、その国は「黄金の国(スヴァルナプーミ)」といわれ、はじめスマトラ島のパレンバンにあったが、シンガポール島を経てマレー半島のマラッカに移り、14世紀末に王国を築いたという。マラッカ王国はマレー半島からスマトラ島の一部を支配したマレー人国家で、マラッカ海峡に面した港市国家として繁栄した。交易に有利な地点を占めたことから、マラッカ王国は周辺の海洋民族を従えていったが、そのころ有力であったタイのアユタヤ朝には服従した。15世紀になると中国の明の使節が来航し、朝貢を求めるようになった。

鄭和の来航と中国への朝貢

 1405年に始まった、永楽帝による鄭和のインド洋への派遣では、鄭和艦隊はマラッカ海峡を経てインドへの進出をはかり、マラッカに寄港している。鄭和艦隊はマラッカを補給基地として重視し、マラッカ国王もまた明に対して朝貢を行い、永楽帝からマラッカ国王に封じられ、印章と勅語を受けている。中国史料には「満刺加」として出てくる。
 マラッカ王国も鄭和の来航を期に急成長し、ジャワ島のヒンドゥー教国マジャパヒト朝と対抗してその商業活動を抑え込み、インド洋と南シナ海の中継貿易を行い、東南アジア最大の貿易拠点として繁栄した。

イスラーム化

 鄭和の来航でマラッカ王国での交易が活発になると、ムスリム商人との交渉も活発になり、このころからイスラーム教が急速に広がった。1414年ごろ国王ムラト=イスカンダル=シャーは初めてイスラーム教に改宗し、国王はスルタン(サルタン)として統治するようになった。スルタンの下に、世襲の最高司令官(ブンダハラ)と大蔵大臣、侍大将、警察長官にあたる官僚制が形成され、多くの港市の外来商人や原住民の部族村落が管理されていた。
マラッカ王国の交易品  これによってマラッカはムスリム商人の東アジア進出の拠点として海上貿易で大いに繁栄することとなった。マラッカには三方の地域から物産が集まった。西方インドからは、綿織物・アヘンが、東方中国からは陶磁器・絹織物・武器などがもたらされ、現地東南アジアからは香料・象牙・白檀・獣皮・樹脂・金・スズ・銅・硫黄・真珠母・貝・鼈甲・さんごなどの特産品がインドと中国に輸出された。特にモルッカ諸島の丁子などの香辛料は珍重されていた。また琉球王国の商人も姿を現していた。ポルトガルなどのヨーロッパの商人が登場する以前に、このような広範囲で活発な交易が行われていたことは十分に認識しておく必要がある。またマラッカ王国がイスラーム化したことによって、ムスリム商人の東南アジアでの活動がさらに盛んになり、東南アジアのイスラームがさらに進むこととなった。

ポルトガルの侵攻により滅亡

 1498年、バスコ=ダ=ガマがインドのカリカットに到着して以来、ポルトガルのアジアへの進出が始まった。1510年にインドのゴアを占領したインド総督アルブケルケは、早くも翌1511年に来航、マラッカの王宮を武力攻撃し占領した。マラッカ王は抵抗したが王宮を逃れ、マレー半島の南を転々とした後、南端のジョホールにたどりつき、そこにジョホール王国を建てた。マラッカ王国はこうして滅びたが、その後身のジョホール王国のスルタン位は現在のマレーシア連邦でも継承されている。 → マラッカの植民地化


マラッカの植民地化

1511年にポルトガルにマラッカを征服され、王家はジョホールに逃れた。17世紀中ごろにはオランダ、次いでイギリスがそれぞれ進出し、かつてマラッカ王国が支配した地域は、1842年の両国の協定でマレー側がイギリス、スマトラ側がオランダに分割された。

ポルトガルの進出とマラッカ王国

 大航海時代を迎えたポルトガルヴァスコ=ダ=ガマが1498年にインドのカリカットに到達、さらぶ1510年、インド亜大陸西側のゴアに拠点を築いた。その翌年の1511年に、インド総督アルブケルケをマラッカに派遣、武力でマラッカを占領した。これが東南アジアの植民地化の始まりだった。マラッカ王国のスルタン(王)はマレー半島先端のジョホールに移り、その後さらにシンガポール島の沖合のリオウ諸島(ビンタン島)に拠点を移した。<鶴見良行『マラッカ物語』1981 時事通信社 p.108-140> → ジョホール王国
 ポルトガルはマラッカから南シナ海に進出して中国商人と接触、マカオを拠点として、日本にも進出、鉄砲や火薬、中国からの生糸などを独占して、南蛮貿易を展開した。しかし、ポルトガルのマラッカ支配は交易拠点として留まっており、広い地域を植民地支配するものではなかった。そのため、マラッカの拠点も孤立化し、1641年にオランダが進出してポルトガルを追い出し、東インド会社の支配下に収めた。
マラッカ王国は滅びず マラッカ王国は1511年に滅亡したのではないことに注意しよう。マラッカを追われた国王(スルタン)マフムード=シャーは、ビンタン島に移ってからもしばしばマラッカ奪回のめざして攻撃した。ポルトガルは反撃してビンタン島を徹底的に略奪、そのためマフムード=シャーはスマトラのカンパルに逃れ、その地で死んだ。その息子のスルタンがジョホール川上流プカン・トゥアに移り、王国を再建した。この王国はマラッカ王国そのものであるが、ジョホール王国とも言われ、ポルトガルの再三の攻撃にも耐えて存続する。<生田滋『東南アジアの伝統と発展』世界の歴史13 1998 中央公論新社 p.357-358>
ポルトガル・オランダ進出の影響 マラッカ海峡が1511年にポルトガル、1641年にオランダに抑えられた結果、インド洋を通って南シナ海で活動していたイスラーム商人は、マラッカ海峡を避けて、スマトラ島とジャワ島の間のスンダ海峡を通るようになった。そのため、イスラーム商人の活動拠点として、従来のスマトラ島北端のアチェ王国に加え、ジャワ島西部のバンテン王国、東部のマタラム王国などのイスラーム教国が台頭することとなる。

オランダとイギリスの進出

 17世紀にはいると、ネーデルラント連邦共和国(オランダ)が進出し、1641年にマラッカのポルトガル人を追放してオランダ領とした。その後、東南アジアの支配権をめぐるオランダとイギリスの抗争の舞台となったが、オランダがフランスに占領されたナポレオン戦争中にイギリスが奪取、1824年のイギリス=オランダ協定によりマラッカのイギリス支配が認められ、替わりにオランダはスマトラ島のベンクーレンを獲得した。イギリスは1826年、この地を海峡植民地の一つに加えた。
 こうしてかつてマラッカ海峡を挟んでマレー半島とスマトラ島にまたがる一つの国であり、文化圏で会ったマラッカは、マレー半島がイギリスへ、スマトラ島がオランダへと分断されて植民地化された。 → マレーシア連邦

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