カースト/カースト制度
インド社会に固有な身分制度をいい、種姓といわれるヴァルナと職業集団を意味するジャーティからなる。基本はバラモン・クシャトリヤ・バイシャ・シュードラの4つのヴァルナからなる身分制度とされているが、インドに来たポルトガル人が、ジャーティも含めて世襲的な身分社会の制度をカーストと呼び、西欧に知られるようになった。アーリア人の移住以来の長い歴史過程で形成、変質してきたが、実態はバラモン教・ヒンドゥー教と結びついた宗教的観念であり、インドの後進性の現れと捉えられ、イギリス植民地時代に制度的に利用された。現在は憲法でカーストに基づく差別は禁止されているが、不可触民への差別は残っており社会問題ともなっている。
カーストの語源
カーストはインドに特有の社会制度であるが、「カースト」と言う言葉そのものはインドの言葉ではなく、ポルトガル語のcasta(血統の意味)からきた(その語源はラテン語のカストゥース custus )。15世紀末にポルトガル人がインドに来るようになってから、インドの身分社会=ヴァルナ制をそのように名付けたことに始まる。日本ではそれを継承して「カースト」は4種姓(バラモン・クシャトリヤ・バイシャ・シュードラ)を意味することが多いが、厳密にカーストに当たるものは職業的世襲制度としてのジャーティである。ヴァルナとジャーティ
ヴァルナ ヴァルナとは、人間は4つの基本の種姓に分けられるとされている。ヴァルナはもともとは「色」を意味しており、征服者であるアーリア人の白に対し、被征服民であった先住民ドラヴィダ人の肌の色の違いを意味していたものと思われる。リグ=ヴェーダなどのヴェーダ文献に表れる4つの基本ヴァルナとは- バラモン:バラモン教の司祭階級。宗教的な支配者階級。
- クシャトリヤ:武士または貴族とされる、政治的、軍事的支配階級。
- ヴァイシャ:農耕牧畜、手工業に当たる生産者、庶民階級。以上三カーストが上位カースト。
- シュードラ:本来は隷属民とされた被支配者階級。下位カースト。
である。
ジャーティ それに対してジャーティはインドの言葉で「生まれ」を意味するが、ヴェーダ文献の時代にはみられず、長い経過を経て、10~12世紀ごろに世襲の職業集団で形成されてから表れた言葉である。インド各地の都市や集落において、人々はいずれかの職業集団に属し、通婚の禁止、会食の禁止(異なったジャーティ間では会食しない)などの他、生活の細部にわたって規制が加えられるようになった。その細分化は時代とともに進み、現在は2000から3000に及ぶとされているが、その分け方には不明な部分が多い。
このヴァルナ制とジャーティから成る身分制度は、インドに来たポルトガル人が血統を意味するポルトガル語の「カスト」から「カースト制度」と言ったことによってヨーロッパに知られ、一般化した。なお、カーストはあくまで「身分」であり、経済的・政治的階層関係と重なっていないことも多い。経済的には貧しいバラモンや、一方で豊かなシュードラや不可触民も存在する。しかし、特にジャーティは貴賤、浄・不浄(穢)の観念と結びついて、卑しいもの、不浄なものは不可触民として厳しい差別が現在まで続いている。
参考 最近のカーストとヴァルナ・ジャーティの見方
かつてはカーストとはポルトガル人以降の西洋が作り上げた概念であり、それはインドにおいてはヴァルナとジャーティと言われたことに相当するとして、教科書でもヴァルナ=ジャーティ制として説明するのが主流となっている。また、カーストとジャーティを同義語として扱い、一項として合わせて説明している(山川出版、実教出版)。しかし、最近では、イギリス植民地支配によって「カースト」が再生、固定化され利用されたという側面も指摘されており、「カースト」という用語を無視すべきでないという議論も起こっている。またヴァルナとジャーティは別個の社会規制であり、一体化して理解するのは間違っている、との考えもある。それによれば、「4つのヴァルナがさらに細分化され、多くのジャーティに分かれた」という説明は正しくないことになる。<この点に関しては藤井 毅『インド社会とカースト』世界史リブレット 2007 山川出版社 を参照>参考 現在のカースト問題
現代のインド共和国憲法(1950年制定)で「カーストによる不可触民に対する差別は禁止する」とされた。しかし「カースト」そのものが否定されているのではない。インドが近代的な国民国家として独立を達成しするまでに、カーストの問題はヒンドゥーとイスラームの宗教対立の克服とともにもっとも深刻かつ困難な課題だった。20世紀前半のガンディーの課題もそれであった。しかし、ガンディーはカーストそのものはインド独自の伝統的な文化としてむしろ肯定している。彼が直面したカースト問題とは、4カースト間の対立ではなく、4カーストのカースト民による不可触民(アウトカースト)に対する差別の問題だった。ガンディーはその問題をカースト民の側から解決しようとしたのに対し、アンベードカルは不可触民側に立って解決しようとして、両者は鋭く対立した。結果はアンベードカルの主張が通り、分離選挙(と留保制度)によって不可触民の権利を守ることとなった。しかし、その問題は現在もなおも解決を見ているとは言えない。つまり、現代における「カースト問題」とは「不可触民問題」なのである。<この点に関しては鈴木 真弥『カーストとは何か-インド「不可触民」の実像』2024 中公新書 を参照>カーストの歴史
アーリヤ人の社会
インドに固有のカーストの原型であるヴァルナという身分制度は、前1000年ごろ鉄器文明段階に入ったアーリヤ人がインダス川流域(パンジャーブ)から東方のガンジス川流域に移住し、先住民ドラヴィダ人を征服する過程で肌の色が白く(いわゆるインド=ヨーロッパ語族)、肌の色の異なった被征服民を差別したところから始まったものと考えられている。征服と被征服の関係に加えて、原始的な遊牧社会から農耕社会に移行し、さらに生産力が向上して手工業や商業が発達して都市国家が形成されるとともに形成された経済的格差(貧富の差)の拡大と固定化などが背景と考えられる。宗教的には、アーリヤ人の宗教(バラモン教から後にヒンドゥー教に発展する)の世界観と深く結びついていることが重要である。ヴェーダ文献から
ヴァルナの原型は『リグ=ヴェーダ』にさかのぼる。『リグ=ヴェーダ』の「プルシャ賛歌」では、神々が原人プルシャを犠牲として祭祀を行ったとき、プルシャの身体の各部分から月、太陽、神々、天地、方位、畜類とともに四種の人間、つまりプルシャの口からはバラモン(祭官)、腕からラージャニヤ(クシャトリヤ、王族)、腿(もも)からヴァイシャ(庶民)、足からシュードラ(奴隷)がそれぞれ生まれたという。プルシャ賛歌はヴァルナの上下の身分関係とともに社会での役割分担を表現していると考えられ、インドの独立の父と言われるガンディーも本来のカースト制度を相互協力による有機的な社会の原理とみなしたが、身分制度の容認、擁護ともとられ批判を受けることとなる。<山下博司『ヒンドゥー教とインド社会』山川出版社・世界史リブレット5>→ ヴァルナ制 ジャーティ
参考 カーストとカースト制度の起源をアーリヤ人の征服過程に求める説は、ヴェーダ文献を根拠としており、有力な学説として一般化している。しかし、それらは19世紀のイギリス人学者の研究によるものであり、それに対する異論、例えば古代家族制度起源説、先住民(ドラヴィダ)起源説、職業起源説、人種起源説、宗教起源説などさまざまなものがあった。第二次世界大戦後には起源を一つに求めず、カーストの機能の理論化とともに多面的に論じるようになっている。最近ではイギリス植民地支配の必要性から、人々のカーストへの帰属意識が形成されたことが重視されるようになっている。またカーストを差別的制度と捉えた場合、不可触民の存在が議論の中心になっている。<藤井猛『インド社会とカースト』世界史リブレット86 2007 山川出版社 p.42-50>
カースト集団
ポルトガル人がヨーロッパにカーストということばを伝えたが、それは「血統」という意味があるので、インド固有の概念では「生まれ」や「家柄」を意味するジャーティにあたる。現在では混用されており、ヴァルナ(4種姓)をカーストといったり、ジャーティをカーストと言ったりしている。現代のインドでもカーストという言葉は定着し、ジャーティつまり世襲的職業集団をカースト、あるいはカースト集団などと言うようになっている。ジャーティ(現代で言えばカースト集団)は、ほぼ同一の職種にある人々が、同じカースト集団のみの通婚によって維持された。異カースト間の通婚は違法とされたが、全くなかったわけではなかった。男性が上位で女性が下位のカーストである場合は結婚は認められたが、その逆は認められなかった。また職業においても世襲が原則であったが、その仕事の口は限界があるので、自分のカーストの仕事だけでは食べていけない場合がある。そのような場合は窮迫時の特例として下位のカーストの仕事をすることは許された。
不可触民 ジャーティ(カースト集団)は、さまざまな職業世襲集団が地域社会の中でヒンドゥー教の教えと基づいた貴賤の観念と宗教的な浄・不浄(穢)の観念と結びつけられ、人々がいやがる仕事、清掃、死体の処理、動物の屠殺などの集団は不浄なカースト集団としてヒンドゥー教徒でありながら同じ寺院での礼拝を拒否され、同じ貯水池の水を飲むことを禁止されるなどの差別を受けるようになった。彼らは不可触民=アンタッチャブルと言われ、カースト外の民、つまりアウトカーストともいわれた。彼らは経済上、教育上の不利もあって社会の上層に立つことはできず、貧困が固定化され、中世以来現在まで抜きがたい差別にさらされ、現在もインドの社会問題として続いている。
反カーストの思想
カースト社会はバラモン教の宗教体系の形成とともに定着していったが、次第にバラモンの教えが形式化するにともない、バラモンの権威を否定するような新たな動きが強まり、前5世紀ごろの仏教やジャイナ教などカースト(ヴァルナ)を否定する宗教が生まれた。都市国家から統一国家の形成期になると、カースト的な社会は統一的支配の障害になる面があり、マウリヤ朝のように仏教が統一国家の理念として保護されるようになった。仏教は深い精神性を持つようになって、その文化的な影響はインド世界の外部にも広がっていったが、民衆の日常生活の中では現世利益と自然崇拝が結びついた信仰がカーストともに生き残っており、それはやがてヒンドゥー教として体系化されていく。ヒンドゥー教とカーストの理念化
紀元後4世紀に成立したグプタ朝時代は多神教としてのヒンドゥー教が理論化され、ウパニシャッド哲学なども盛んになった時代であるが、まだ宮廷では仏教やジャイナ教も大きな力を持っていた。しかし、仏教とジャイナ教は貴族や商人など上層社会に信者が多く、民衆間には伝統的な村落の行事などと結びついたヒンドゥー教の影響が次第に強まり、それに伴ってカースト(厳密にはジャーティ制度)も社会に理念として受け入れられていった。北インドにイスラーム教の勢力が及び、13世紀にデリー=スルタン朝のイスラーム政権が成立した。しかしイスラーム教勢力は民衆の信仰であるヒンドゥー教に対しては比較的寛容であり、ジズヤ(人頭税)の支払いを条件にその信仰が認められ、16世紀に成立したムガル帝国も当初は同様な宗教政策を採った。その間、ヒンドゥー教でも純粋に神への帰依を説くバクティ運動がまず南インドに広がり、つづいて北インドにも及んでいった。つまりイスラーム教政権のもとでも、カースト制度はインド社会に理念として深く浸透していた。
不可触民の形成
もともとのカーストを形成したヴァルナの最下層に隷属民としてシュードラがあったが、農業社会の広がりとともに第3ヴァルナのヴァイシャとほとんど変わりがない存在となっていった。農業・手工業に従事するようになったシュードラは隷属民として差別されることはなくなった。それにかわって農業民の周辺にいた狩猟民などであった人々が、カースト(4ヴァルナ)外の不可触民として差別の対象になっていったと考えられる。このような4ヴァルナ身分制と不可触民という差別の枠組み(これを広義のカースト制という)は、紀元後2~3世紀にガンジス川流域からインド亜大陸全域に徐々に広がっていった。不可触民は主として社会の中の不浄とされる仕事、死体処理や動物の屠殺、墓の清掃や街の糞尿の処理などを世襲の職業(ジャーティ)とする社会集団を形成し、4ヴァルナのカースト民から差別される存在として続いた。その形成過程には分からない点も多いが、おおよそ7世紀頃までには全インドで定着したものと思われる。これ以降、現在まで、カースト制といった場合、4ヴァルナのカーストとカースト外の不可触民を合わせて広い意味で捉える必要がある。<鈴木真弥『カーストとは何か――インド不可触民の実像』2024 中公新書 p.28-37> → 不可触民カーストへの批判
15世紀末から16世紀初めに現れたカビールは、イスラーム教のスーフィズム(神秘主義)とヒンドゥー教のバクティ信仰の融合を図りながら、カースト制度や不可触民に対する差別を非難し、人々の平等を説き、その思想はパンジャーブ地方でナーナクに受け継がれ、彼はシク教を創始した。イギリス植民地支配とカースト
17世紀に始まるイギリスのインド植民地化の過程で、イギリスはカースト制はインドのヒンドゥー教とイスラーム教の対立や多言語社会などと共に、その停滞性の現れとされ、インド植民地支配を正当化する理由とされるようになった。同時にイギリスはインド植民地支配において、ヒンドゥー教徒とイスラーム教徒の対立を利用しようとしただけでなく、カースト間およびカーストとアウト=カースト(不可触民)の対立を利用する、いわゆる分割統治を行った。その過程でイギリス植民地政府は、インド社会の宗教慣行を徹底的に調査した。理念に過ぎなかったカースト もともとヴァルナはヴェーダ文献や法典で伝えられた理念的なもので、実体的ではなかった。それが8世紀頃~地域単位でジャーティの慣習が定着したことで、次第にヴァルナの階層理念に対応しながら身分的に位置づけられていった。ただし、その序列は固定的だが厳密ではなかった。理念に過ぎなかったヴァルナが実体化し、現実のインド社会に影響を及ぼすようになったのは、イギリスによる植民地支配の時代に、古代サンスクリット文献が積極的に利用されるようになってからで、それは19世紀以降のことと考えられる。重要なことはカーストという社会集団が公に認知されたのはイギリス植民地政府のもとでであり、独立後のインド政府もそれを継承したことであった。カーストの概念規定や範疇は、行政府による福祉政策などの介入によって影響を強く受けている。
植民地支配下でカーストが実体化 インド植民地政府は、徴税目的のために国勢調査、地誌・民族誌調査を詳細に行い、カースト集団の慣行などを植民地官僚が徹底的に調査した。そのパラノイア的とも言える時間と人力を費やした調査は、それまで曖昧だったカースト概念を体系化、実体化させた。それはイギリスの植民地支配に利用されただけでなく、インド人もそれに対応して各カースト団体を結成してイギリス植民地側と交渉するようになった。こうしてイギリス植民地支配の元でカースト制は実体化していった。<鈴木真弥『前掲書』 p.8-10
犯罪者集団をカースト化 1871年、イギリス植民地当局はクリミナル・トライブ法を制定した。これはカーストが職業を継承するとの前提にもとづき犯罪を生業とするカーストが存在するとみなし、その管理統制によって犯罪を未然に防ごうとする政策であった。それによって「犯罪者集団」の特定がカースト単位に行われた。そのような「職業的犯罪者集団」とされたものには第2次マラーター戦争でイギリスに敗れたマラーター王国の騎士団が野盗化したピンダーリー、北インドやデカン一帯のタグとダコイトといわれる盗賊・強盗団など、東インド会社が取り締まりに手を焼いていた集団だった。この法律は1924年にかけて数度にわたる改正を受け、イギリス領では州ごとにカーストを単位として犯罪を伝統的職業とする集団が特定され、登録制や移動制限にはじまり、収容キャンプに親子を切り離して送致するなどの手法が加えられた。犯罪集団と特定された集団には放浪・非定着民や出生や血統により特定されるとはかぎらない集団も含まれ、イギリス植民地化のカースト社会の否定的部分をもっとも体現した施策であった。この法律が撤廃されたのは、インド独立後のことである。<藤井猛『インド社会とカースト』世界史リブレット86 2007 山川出版社 p.56-58>
20世紀のカースト問題
第一次独立運動の展開
20世紀に入り、1905年のベンガル分割令に対する反対運動からインドの反英闘争は本格的な段階に入った。イギリス当局もインド統治法をたびたび改定して対応した。しかし改革は進まないまま第一次世界大戦を迎え、戦後の1919年にガンディーの指導する第1次非暴力・不服従運動が開始された。イギリス政府はそれを厳しく弾圧する一方、1919年12月にインド統治法を制定(施行21年)して現地議会に一定の自治権を与えるなどの妥協を行った。国政改革とカースト
しかしその後もインドの国政改革は進まず、1927年、イギリスは憲政改革調査委員会(サイモン委員会)を設けてインド統治法の改定の検討に入ったが、それにインド人委員を加えなかったことで激しい抗議行動が起こり、1930年3月にガンディーの塩の行進を中心とした大衆運動が盛り上がり、第2次非暴力・不服従運動が展開された。追い込まれたイギリスはは英印円卓会議を開始してインド側の運動を牽制した。この国政改革の中で特に問題として浮上したのが不可触民を含む下層ジャーティ対策であった。独立運動の主流を指導していたガンディーは不可触民をハリジャン(神の子)と呼び、かれらはヒンドゥー教徒の一部であり、その差別撤廃はヒンドゥー教徒の自覚によるべきあると考えた。それに対して不可触民の出身であるアンベードカルは不可触民はヒンドゥー教徒と別のコミュニティーであり、政治的権利も別個に与えられるべきだと主張していた。イギリス政府はすでに1906年のモーリー=ミントー改革でヒンドゥー教徒とイスラーム教徒に対して分離選挙を実施しており、この不可触民をめぐる対立にたいしても分割統治の手法を導入しようとして、1931年9月に第2回英印円卓会議を開き説得に当たったが、インド側のガンディーとアンベードカルの対立によって紛糾した。アンベードカルの分離選挙要求に対し、ガンディーは分離選挙はヒンドゥー教徒と不可触民を分断するものだと主張し、絶対反対の態度を貫いた。
コミュナル裁定
1932年8月、イギリスのマクドナルド挙国一致内閣は「コミュナル裁定」を決定した。マクドナルド裁定とも言われるこの裁定では、それは宗派・社会集団(コミュニティー)別代表権裁定といわれるもので、インドの現地議会の議席をイスラーム教徒・ヨーロッパ人・インド人キリスト教徒、およびアングロ・インド人(ヨーロッパ人とインド人の間の子孫)には分離選挙制を与え、不可触民には彼らだけの選挙権、被選挙権のある一部の分離選挙区および一般選挙区における選挙権と被選挙権の双方を有する特別選挙制の導入を図ったものであった。ガンディーとカースト
ガンディーの生まれはモード=ヴァニヤと呼ばれる商人カーストであった。1888年、彼が18歳でイギリス留学を決意したとき、カーストの集会に呼ばれ、カーストの掟に反するとして海外留学を禁止された。「君はカーストの掟を破る気か」とカーストの長老に問いつめられたガンディーは、「わたしはこの問題にカーストは干渉すべきではない、と思います」と述べ、長老を激怒させた。長老は「ここなる少年は、本日よりカーストから追放された者として取り扱うものとする。彼に援助の手を差し伸べた者、見送りに波止場に行った者は、全員1ルピー4アンナの罰金に処す」と宣言した。ガンディーはそれに屈せず、留学を実行して弁護士資格を取り、インドに戻ってくるのであるが、そのときもガンディーのカースト再加入を認める人々と、除籍を続けるべきであると主張する人々の二派に分かれたままであった。<ガンディー『ガンジー自伝』中公文庫 蝋山芳郎訳 p.65,110>ガンディーのカースト観 ガンディーの青年時代もまだカーストから追放されることは青年にとって大きな痛手であった。やがてガンディーはカースト制度による差別、特に不可触民に対する差別を激しく非難するようになる。しかしガンディーは生涯を通じカースト制度そのものと結びついていたヒンドゥー教の熱心な信者であり、その運動の理念はヒンドゥー教の聖典『バガヴァッド=ギーター』に依拠していた。若い頃、イギリスの近代社会を目の当たりにしたガンディーは西欧文明社会が必ずしも優れていて正しいものであるとは見ず、インドを植民地として支配するイギリスの近代機械文明を否定することがインド自立への道であると考えていた。その思想は西欧近代社会の自由や平等などの価値観よりも、むしろインドのヒンドゥー教に根ざした伝統に真理を求めることとなり、ガンディーはカーストはヒンドゥー教の伝統に基づいたインド固有の伝統的社会規範として守らなければならないと考えたのだった。
ハリジャンとダリト
ガンディーの立場は、カースト(ヴァルナ)制は廃止ではなく、不合理な差別や因習は改良すべきであり、不可触民制は廃止すべきであるというものだった。ガンディーは不可触民をハリジャン(神の子)と呼び、ヒンドゥー教徒の一員として迎え入れ、ヒンドゥー教徒すべてに差別を無くすことを呼びかけた。しかしガンディーはヒンドゥー至上主義、イスラーム排除にも徹底して反対し、ムスリムとの共存、相互理解による統一インドとしての独立を強く主張し、その立場からムスリムのジンナーなどが主張した分離選挙にも反対した。分離選挙はインドの統一を阻害するという信念に立つガンディーは、アンベードカルの主張する不可触民の分離選挙に対しても、それによってかえって不可触民階層が固定化され差別が残ってしまうと考えて徹底して反対した。それに対してアンベードカルは、ガンディーの観念的なハリジャンの用語を否定し、不可触民を彼らの言葉で「差別されている人」を意味するダリトと称し、その解放のためにはダリトだけの選挙区を設けそこから代表を選ぶ分離選挙が必要であると主張した。
プーナ協定
イギリスのマクドナルド内閣による「コミュナル裁定」で分離選挙が認められたことに対してガンディーは1932年9月20日に生命を賭した断食宣言を行って抗議した。ガンディーの命か、不可触民の政治的権利の実現か、という難しい選択を迫られたアンベードカルは、プーナ(プネー)の獄中のガンディーを訪ね1932年9月24日に分離選挙の要求を取り下げ妥協が成立した。その内容は不可触民への分離選挙を認めず合同選挙とする代わりに、保留議席(あらかじめ一定の議席を与える)数を増やすというもので、ガンディー(及び国民会議派)の主張を大幅に取り入れたものであった。不可触民の政治的権利は、自分たちの選挙区で自分たちの代表を選出する権利ではなく、議会への参加の保障のみになったのである。イギリス政府はこの妥協を受けて、1935年に新インド統治法を制定し、カースト問題(不可触民差別の問題)への一定の解決とした。ここではイギリスのインド政庁は、新たな行政用語として「指定カースト」という範疇をつくり、従来の不可触民をそれにあてはめた。それは選挙区で設けられた留保枠を与える集団を特定するためのものであったが、厳密な定義は避けられたので、1936年にはインド全域での指定カーストのリストが作成され、翌37年にそれに基づいて議員を選出する地方議会選挙が実施された。この指定カーストの概念は、独立後のインド憲法によっても踏襲されることとなる。
現在のカースト問題
インドの独立と憲法制定
第二次世界大戦時もインド独立運動を指導したガンディーは、最後までヒンドゥー教徒とイスラーム教徒を統合した統一インドとしての独立を追求したが、イギリスが推し進めた分割統治の結果としてコミュナリズムの対立は決定的となり、双方から分離独立の要求が強まってインド・パキスタンの分離独立へと突き進んだ。1947年8月15日にインド連邦として独立したが、翌1948年1月30日、ガンディーはヒンドゥー教の狂信的な信者によって殺害されてしまった。1950年1月26日に施行されたインド共和国憲法の起草にあたったのは、ガンディーと鋭く対立した不可触民出身のアンベードカルであった。戦後のインドとカースト
独立後のインドを主導したネルーの国民会議派政権は、パキスタンがイスラーム教信仰を国の理念としたのに対して、ヒンドゥー教徒だけでなくイスラーム教徒やシク教、ジャイナ教、ゾロアスター教徒、仏教徒などを含む国家となったので、宗教対立を克服すべく、政教分離(セキュラリズム)を柱としている。カーストによる差別の禁止 インド憲法では第15条で「宗教、人種、カースト、性別または出生地を理由とする差別の禁止」を定めている。つまり、カーストの存在そのものを否定しているのではなく、カーストによる差別を禁止している。またここで「カーストによる差別」といっているのは、現実には4ヴァルナ間の差別の意味ではなく、世襲的職業集団であるジャーティの中の下層ジャーティである不可触民に対する差別を意味している。現代で「カースト問題」あるいは「カースト差別」といった場合、それは不可触民に対する差別問題を意味するので、誤解のないようにしなければならない。
不可触民制の廃止 またインド共和国憲法第17条に
「不可触民制」は廃止され、いかなる形式におけるその慣行も禁止される。「不可触民制」より生ずる無資格を強制することは、法律によって処罰される犯罪である。
と定められた。「カースト廃止」の規定ではないが明確に「不可触民制の廃止」が定められているので、実質的に「カースト問題」とは「不可触民差別」のことであるので、これらの規定で現代インドにおいては「カースト差別」は憲法上禁止されているという理解で誤りはない。
留保制度(リザーベーションシステム) インド憲法では不可触民の差別は否定されただけでなく、差別によってもたらされている不利益を解消するために、大胆な優遇を定めている。それは留保システム Reservation System といわれ、被差別集団出身者に一定の優遇措置をするものである。
従来の不可触民集団出身者は「指定カースト」とされ、その他の被差別集団(指定部族、後進諸階級など)とともに、教育・公的雇用(公務員採用)・議会選挙の三部門のそれぞれに、一定の割合を確保するとされた。この留保システムは差別がなくなるまで(当初は10年間)の時限的措置とされたが、現在もまだ続いている。この制度は、アメリカ合衆国における黒人などマイノリティーに対するアファーマティヴ・アクションに先行する施策であり、現代の世界各地での人権問題に大きな影響を与えているが、同時に特定の人々にたいする教育や就職などでの優遇策が続いていることに対して、対象でない人々の不満が続いているのも事実である。 → 憲法での不可触民の廃止
インドにおいても不可触民出身者やムスリムなどの少数派に対する優遇策を続けてきた戦後の国民会議派政権に対して、ヒンドゥー教徒の中から根強い反発があり、そのような感情を背景にしてヒンドゥー至上主義やナショナリズムを宣揚するインド人民党などの台頭が21世紀になって顕著になっている。 → コミュナリズムの再燃
News 今もある下位カーストの不満
2010年12月、インド西部ラジャスタン州で、カースト下位に属する一部の集団が、公務員の優先採用枠の拡大を求めてデモを行い、鉄道や道路を占拠し、首都ニューデリーと商業都市ムンバイを結ぶ交通機関が寸断されるなどの混乱が生じた。デモを始めたのは「グジャール」と呼ばれるカースト集団で、最低位の「指定カースト(旧不可触民)」の上に位置する「その他後進諸階級(OBC)」に属する。OBCに対しては公務員の採用や大学の入学枠などで21%の優先枠があるが、やや上位の別の有力カースト集団がOBCに編入されるとOBC内の競争が激しくなり、07年以降、デモが活発化している。グジャールはOBCとは別枠5%を要求している。ラジャスタン州は政治的圧力に押され優先枠を拡大する方針を決めたが、高等裁判所が異議を唱えたため実行されず、グジャール人たちが騒ぎ出した。占拠は12月26日で7日目に入りニューデリー~ムンバイ間の主要鉄道の一部が運休となる事態となっている。<朝日新聞 2010年12月27日記事>