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ウルドゥー語

ムガル帝国で成立したペルシア語と北インドの口語などの混成語。現在のパキスタンの国語となっている。

 インドは北部にはアーリア系のインド=ヨーロッパ語系の言語、南部にはドレヴィダ系のタミル語などが用いられる多言語社会であった。大きく転換したのが、12世紀ごろから本格化した、イスラーム勢力の侵入の結果であった。13世紀からデリー=スルタン朝がデリーを都とした北インドを支配、さらに16世紀にムガル帝国が成立し、17世紀後半にはほぼインド全体を支配するようになった。この征服王朝でアルムガル帝国では、宮廷語としてペルシア語、アラビア文字が用いられていた。

ムガル帝国時代の混成語

 ムガル帝国ではペルシア語が公用語とされたが、征服王朝であったので多数のインド人を兵士として補充した際、軍隊内の指揮伝達の共通言語が必要となり、北インドの口語(ヒンドゥスターニー語といわれるデリー地方の言語。カリー=ボーリー方言とも言う)の文法をもとにアラビア語、ペルシア語などイスラーム圏の語彙を加え、アラビア文字を用いて表記するという、ウルドゥー語がつくられた。ウルドゥーとはトルコ語で軍隊の陣営を意味していたという。このようにウルドゥー語は混成語であったが、ムガル帝国のもとで、ヒンドゥー教徒を統治する際の行政・裁判用語としても使用され、特に北インドでは定着していった。それを表記する文字は従来どおりアラビア文字であった。ウルドゥー語はイスラーム文化とヒンドゥー文化を融合させたインド=イスラーム文化の特徴的な例である。

ヒンディー語の出現

 ポルトガル、フランスなどに続いてインド亜大陸に進出したイギリスは、18世紀中頃までにインド支配の主導権を握り、19世紀後半にはその植民地支配を確立した。ムガル帝国にかわってインドを統治したイギリスは、1837年に英語をインドの公用語とし、ペルシア語の使用を禁止した。しかしインド支配のための行政や裁判用語としてはウルドゥー語の併用を認めた。一方で、ヒンドゥー教徒の中には、イスラーム色の強いウルドゥー語に対して、言語純化運動が興り、それからアラビア語やペルシア語の語彙を排除して純粋な言語としてのヒンディー語が作られていった。

パキスタンの公用語となる

 ウルドゥー語とヒンディー語は文法的には共通であるが、語彙が異なり、またその表記もアラビア文字とインド固有のデーヴァナーガリー文字を用いるという違いがある。第二次世界大戦後に長い独立運動の中でガンディーなどの全インドの統一した独立は実現せず、インド・パキスタンの分離独立となったのに伴い、それぞれの国語も、インドはヒンディー語、パキスタンはウルドゥー語と別れることになった。現在までウルドゥー語はパキスタンの国語(公用語)として用いられている。 → インドの言語 
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