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インド・パキスタンの分離独立

イギリスの植民地支配を受けていたインドは、第一次世界大戦後にガンディーらの指導する独立運動が活発となったが、イギリスの分割統治の政策によって次第にヒンドゥー教徒とイスラーム教徒が対立し、第二次世界大戦後にの1947年8月、ヒンドゥー教徒の国インドと、イスラーム教徒の国パキスタンとに分離して独立することになった。

 イギリスのインド植民地支配に対して、1857年のインド大反乱以来、反英闘争が激化してきた。
 その戦いには何回かの高揚期があるが、20世紀に入ってからは国民会議派が中心となった組織的な闘争が始まり、特に第一次世界大戦後のガンディーらを指導者とする非暴力・不服従による独立運動が特徴的なインド独自の運動の形態として盛んになってきた。しかし、イギリスによる支配は軍事力と同時に、インド内部のヒンドゥー教徒とイスラーム教徒の間の宗教的対立、いわゆるコミュナリズムを利用した巧妙な分割統治によって維持されていた。その結果、インド独立は第二次世界大戦後の1947年8月に実現したが、それはガンディーの目指した「一つのインド」としての独立ではなく、インドとパキスタンという分離独立という結果となった。

ヒンドゥーとイスラームの対立

 イギリスが独立運動を弱体化するためにとった分割統治の影響を受け、植民地側にヒンドゥー教徒とイスラーム教徒の分離主義が生じてしまった。ガンディーらヒンドゥー教徒主体のインド国民会議派は、イスラーム教徒も含めてのインド一体となった独立を追求したが、必ずしも少数派のイスラーム教徒と協力することに徹底していなかった。またイスラーム教徒側は、ジンナーなど全インド=ムスリム連盟が途中から分離独立を主張するようになり、1940年にはパキスタン決議を採択して分離独立を明確に宣言し、両者は一体化出来ないまま独立に踏み切らざるを得なかったと言える。

第二次世界大戦中のインド

 第二次世界大戦が起きると、イギリスはインドを自動的に連合国側に参戦させ兵力の供給地とするために、戦後の独立を認めたが、ガンディーら国民会議派は、帝国主義との戦いよりも、まず即時独立を認めよと迫った。ガンディーらはイギリスが即時独立を認めないならば、イギリスには協力できないとして1942年8月8日「インドを立ち去れ」(クィット=インディア)運動を開始したが、イギリスはガンディーらを逮捕し、運動を弾圧した。なお、インドの一部にはチャンドラ=ボースのように、日本軍に協力してイギリスを追い出す戦いに立ち上がり、日本軍とともにイギリス軍と戦った人々もいた。
 イギリス政府は国民会議派の同意こそ得られなかったが、月々5万人のインド人兵士を徴募し、200万の将兵を東西の戦場に送った。戦争は一面で軍需産業を成長させ、鉄鋼・綿工業・鉱業・造船の生産高は急増し、戦前はイギリスの債務国であったインドが、終戦時には50億ドルの債権国になっていた。けれどもこうした戦時景気は限られた資本家や商人を潤しただけで、農民や労働者、中産階級の生活は苦しく切迫するばかりであった。1943年にはベンガル地方で未曾有の大飢饉が起こったがそれは物価の高騰・買い占め・輸送難などの戦禍による人災であった。飢餓と伝染病のために350万人が死んだ。<森本達雄『インド独立史』1973 中公新書 p.191-192>

大戦の終結とインド

 1945年8月、第二次世界大戦は終結したがインドは混乱の中にあり、ただちに独立することはできなかった。イギリスでは1945年7月に総選挙があり、インドに完全自治を与えることを公約していた労働党アトリー政権が成立し、公約通りインド新憲法の制憲議会を設置するための総選挙を1946年1月以降に実施するとした。制憲議会選挙は7月に行われ、国民会議派が12州中8州で勝利し、国民会議派議長ネルーは独立への主導権を握った。それに対してムスリム連盟のジンナーは強く反発し、7月末、ムスリムの国パキスタンとヒンドゥー教徒の国ヒンドゥースタン二国の憲法を別々に制定せよと決議した。8月には両派の対立が激化し、カルカッタではヒンドゥー教徒がムスリムを襲撃し4700人が犠牲になった(カルカッタ大虐殺)。しかしネルーは9月2日に会議派中心の臨時政府を発足させた。宗教対立(コミュナル騒動)の激化を受け、アトリー首相はネルーとジンナーをロンドンに招いて収拾をはかったが、10月にはベンガルの僻地ノーアカーリー地方でムスリムがヒンドゥー教徒を襲撃するという事件が続き、暗礁に乗り上げた。ガンディーは事態を重く見て単身ノーアカーリーに行き、村々を回って必死に融和を説いた。
 なお、この間、インドはまだ正式には独立していなかったが、戦後の独立が予定されていたことからサンフランシスコ会議に参加し、1945年6月26日に採択された国際連合憲章に調印、その原加盟国(50カ国)の一つとなった。分離独立前なので、パキスタンはまだ生まれていない。
 1947年2月20日に、イギリスアトリー内閣は1948年6月までにインドを撤退して政権をインド側に譲渡するつもりであるという歴史的な宣言を行った。同時にマウントバッテン卿を「最後の総督」として派遣した。3月にマウントバッテンはヒンドゥー、イスラム双方の代表と会談し分離して独立することやむなし、との結論に至った。6月3日、インド・パキスタンの分離独立、ベンガルとパンジャーブはそれぞれ2分するとの裁定を発表し、しかも政権譲渡の日を予定より早めて同年8月15日とした。インドの両派はそれを受諾した。<森本達雄『前掲書』p.197-198>

イギリスがインド独立を急いだ背景

 イギリス(アトリー政権)がインド独立を急いだ背景にはインドの激しい宗教対立の収拾と同時に、イギリス側の事情があった。
(引用)じつはイギリスは戦勝国であるにもかかわらず、戦争のあいだにインドに対して莫大な負債をかかえていたのである。19世紀後半にイギリス領インドが成立して以来、対英負債をかかえてきたのはつねにインドである。その負債を帳消しにされることを恐れて、イギリスはインドを手放さなかったのである。だが、第二次世界大戦は長い間の債務関係を一挙に逆転させ、今度はイギリスが、1945年に13億ポンドという膨大な負債をインドにたいしてもつ債務国となったのだった。これは誰ひとり予想しなかった事態であった。<辛島昇編『南アジア史』新版世界各国史7 2004 山川出版社 p.422>
 それだけではなく、イギリスはアメリカに対しても戦争中に大きな負債を抱えており、しかも戦後のイギリス経済状態は悪化するばかりであったので、もはやイギリスはできるだけ早く政権を譲渡しなければならない状態に追い込まれていたのである。

インドとパキスタンの分離独立

 ついで1947年7月18日、イギリス議会がインド独立法を可決して、インドとパキスタンの分離独立が最終的に確定した。それを受けて8月15日に独立することになったが、パキスタンは前日の1947年8月14日に独立式典を開催し、ジンナーが初代総督に就任した。インドは翌1947年8月15日インド連邦として独立した。
イギリス連邦には残留 こうしてイギリス植民地はヒンドゥー教徒を主体とした国であるインド連邦(1950年1月26日インド共和国となる)と、イスラーム教徒の国であるパキスタン(インドの東西の二地域、現在のパキスタンとバングラデシュから成り立っていた)に分離独立という形となった。ただし、インドもパキスタンも戦後の国際協力機構の一つとしてのイギリス連邦(コモンウェルス)には加盟している。
膨大な難民の発生 こうして200年に及ぶ植民地支配が終わり、独立を達成した。ガンディーは分離独立に強く反対したが、両派(政治的には国民会議派と全インド=ムスリム連盟)の対立は修復できず、分離独立となってしまった。そのため、インドにいたイスラーム教徒はパキスタンへ、パキスタンに含まれることになったヒンドゥー教徒やシク教徒はインドへ、それぞれ迫害を逃れて大移動することとなり、その過程で各地で衝突と殺戮がくりかえされた。そのために発生した難民は数百万人に及んだ。
藩王国の扱い   イギリス領インド(インド帝国)には、560に及ぶ藩王国があり、イギリス統治の「協力者」として自治が許されていたが、インド・パキスタンの分離独立によってそのいずれかに併合された。その際も次の三藩王国で紛争が起こった。ジュナガル藩王国はインド領に含まれていたがムスリムが多く、パキスタンへの併合を宣言したため、インド軍が侵攻して武力併合した。デカン高原中央のハイダラーバード藩王国はムスリムが多かったため、独立を求めたが1948年9月にインド軍の武力介入によって併合された。インド・パキスタン国境地帯のカシミールでは人口の約4分の3がムスリムでありながら藩王がヒンドゥーであったのでインドへの編入に傾いたためカシミール帰属問題が起り、早くも1947年にインド・パキスタンが武力衝突、インド=パキスタン戦争となった。その後も戦争は三次まで続き、現在も解決がついておらず、互いに核開発を競うなど憎しみを深めていることは憂うべきことであろう。
 1950年1月26日、インド連邦はインド共和国となって新憲法を施行したが、何台は言語州問題だった。インドではわずか1票の差でヒンディー語を国語とすることが決まった。一方のパキスタンではイスラーム的要素の残るウルドゥー語が公用語とされ、言語の上でもその違いを明らかにした。

分離独立の悲劇

 インドがヒンドゥー教地域とイスラーム教地域という宗教上の線引きで分離独立に至ったため、次のような悲劇が起こった。
(引用)分離独立はますます民衆を宗教的熱狂へとかりたてた。復讐は復讐を呼び、ついに住民は死か逃亡かの二者択一にせまられた。こうして世界史上まれにみる宗教による住民の大移動が始まったのである。東パンジャーブ(インド領)からはムスリムの難民の群れが西パンジャーブ(パキスタン領)に向かい、西からはヒンドゥー教徒・シク教徒の難民が東に流れていった。この大移動で国境を越えた者の総数は、1200万とも1500万とも言われている。汽車やバス、トラックから馬車・牛車に至るまで、ありとあらゆる交通機関が動員されたが、大多数は数百マイルの道程を、恐怖におののき飢餓にあえぎながらとぼとぼと歩いていった。難民の列はえんえん80キロも切れることがなかったと言う。道中双方で、略奪・婦女暴行・強制改宗などあらゆる残虐行為が連鎖的にくりさえされた。落伍した老人や病人は路上に見捨てられ禿鷹の餌食になり、おまけに、移住民の間にコレラや天然痘が発生した。こうして緑なす「五大河(パンジャーブ)」流域は、一夜のうちに流血の修羅場と化した。<森本達雄『インド独立史』1973 中公新書 p.198-9>
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インド独立史 表紙
森本達雄
『インド独立史』
1978 中公新書