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インドの言語

インドは歴史的にも、現在においても多くの言語が共存した。ムガル帝国ではペルシア語、イギリス植民地時代には英語が公用語とされたが、現在では憲法で連邦公用語としてヒンディー語が規定されている。しかし現在の憲法では、州ごとに「公的に認定された言語」として22言語があげられている。現実には英語が州を超えた共通語として使われている。

インドは多言語国家

 インドは13億3400万人(2018年)の人口を有する大国である。29の州は「言語州」といって言語の違いで分けられており、州の境目を超えると言葉も代わることになる。公用語は22(2018年現在)もあり、紙幣には10を超える文字で金額が記されている。その言語系統は、インドの北半分ではヒンディー語やベンガル語などインド=ヨーロッパ語族(英語をはじめとする現在のヨーロッパの言語と起源は同じ)に属し、南インドにはタミル語(日本語との類似性があり注目されている)などのドラヴィダ語族に属している。その他に、チベット国境やビルマ国境地方ではシナ=チベット語族、東インドの一部にはオーストロアジア語族(カンボジア語と共通)の言語が見られる。

現在の連邦公用語はヒンディー語

 現在のインドで連邦公用語とされるヒンディー語は、その話者人口は中国語、英語に次いで世界第3位となっている。インド憲法ではヒンディー語を「国語」と規定しているが、南インドなどでは反発が強い。イギリスのインド植民地支配の時代に使われた英語が依然として共用の言語(凖公用語の扱い)として通用しているという皮肉な現状となっている。また、ヒンディー語が生まれる事情はインドの歴史に深く関わっている。
 かつては広い意味のインドに含まれていたパキスタンでは、ヒンドゥー教徒の多いインドに対して、イスラーム教徒(ムスリム)が主体となって分離独立した経緯があるため、言語事情もインドと異なり、ウルドゥー語が国語とされている。なお、さらにパキスタンから1971年に分離独立したバングラディシュの国語はベンガル語で、一部にウルドゥー語を使用する人々も存在する。

Episode 隣近所、みな話すことばがちがう

 1970年代初め、南インドのカルナータカ州マイソールで数年間を家族とともに過ごした辛島昇さんは、同じ住宅街に隣り合って住んでいる6軒のインド人が皆違った母語であり、皆が意志を疎通させることができたのは英語だったと体験談を書いている。
(引用)我が家の右隣はコルカタから来ていてベンガル語を話す一家。左隣は、南インドではあるがテルグ語を話す州から来ている一家というぐあいに、出身地が違ったり、あるいはイスラーム教徒なのでウルドゥー語であるとか、それぞれの母語が異なっていた。連邦レベルの公用語であるヒンディー語の知識を多少はもっている人がいても、誰もそれで話そうとはしないし、ヒンディー語を母語とする家は一軒もなかったのである。したがって、皆が一緒になれば、当然、英語で話をしたし、母語が違えば、どの二人の間でも自然と英語が使われた。<辛島昇『インド史』2021 角川ソフィア文庫 p.14>

インドの言語州

 インドの植民地時代には行政地域は言語分布と一致せずに編制されていたが、独立語、国民会議派の主導のもとで合理的な州境界線の線引きが行われ、1956年に言語州への再編成が行われた。この時は14州と6連邦直轄領であったが、インドで初めて一言語一州の原則がほぼ全国で実施されたこととなる。その五州の分割などが進み、より精密な言語州となっているが、現実には一州には一言語ではなく、いくつかの少数言語地域を含んでいる。
注意 ヒンディー語とウルドゥー語の関係 一般に、ウルドゥー語は、ペルシア語と北インドのヒンディー語の文法を融合させて生まれた、と説明されることが多いが、厳密にはウルドゥー語のもとになったのはヒンディー語ではなくヒンドゥスターニー語といわれるデリー地方の口語のひとつであった。ムガル時代に生まれたウルドゥー語から、アラビア語やペルシア語の語彙を除いて、イギリス植民地時代に作られた「人工語」が「ヒンディー語」である。だから、「ヒンディー語からウルドゥー語が生まれた」のではなく、「ウルドゥー語をもとにヒンディー語を作った」と言う方が正しい。

ウルドゥー語とヒンディー語

ウルドゥー語 インドにおける言語事情が大きく変化したのは、11世紀ごろから本格化した、イスラーム教のインド進出であった。13世紀からデリーを都としたデリー=スルタン朝が北インドを支配、さらに16世紀に成立したムガル帝国はほぼインド全体を支配するようになる。この間、ムガル帝国の宮廷語であったペルシア語と北インドの口語のヒンドゥスターニー語が融合してできたウルドゥー語が広く使われるようになった。ウルドゥー語はアラビア文字で表記された。
ヒンディー語の創作 ところが、インドの言語事情は、18世紀中頃から始まったイギリスの植民地支配の進行によって、さらに大きな転換させられることになる。イギリスのインド植民地支配は1857年のインド大反乱を鎮圧した後の1871年のインド帝国の成立によってほぼ達成されたが、それ以後20世紀前半まで続く植民地支配の原理はインドの分割統治「分割して統治せよ」であった。その分割は地域的分割と同時にヒンドゥー教徒とイスラーム教徒の宗教対立を利用することだった。その中からインド民衆の中にもコミュナリズムといわれる対立感情が生まれていった。このようなイギリスによるインド植民地支配の過程で生まれたのがヒンディー語であった。それは、ウルドゥー語の中からアラビア語・ペルシア語起源の語彙を排除したもので、主として文章語として発達し、表記する文字もアラビア文字ではなくデーヴァナーガリー文字というインド固有の文字を使用するようになった。それはインドの民族運動の過程で生まれた言語の純化運動という側面があった。

インドとパキスタンの言語分離

 イギリス殖民地支配下では英語が共用語として強制されたが、民衆の中ではウルドゥー語とヒンドゥー語がなおも併用されていた。この両語は文法的には共通しているので、実生活上はほとんど問題が無かった。ところが、1947年、インドの分離独立が確定し、インドとパキスタンが別個の国家となった。そのときのインド連邦が1950年にインド共和国となったとき、憲法でヒンディー語を公用語と定めた。一方のイスラーム教徒主体のパキスタンではウルドゥー語を公用語とすることになった。<山下博司『ヒンドゥー教とインド社会』山川出版社・世界史リブレット5などによる>
 → 出題 センター試験 2012年世界史B 第4問

NewS インドで新言語見つかる

 チベットに近いインド北東部で、これまで知られていなかった新しい言語が見つかったとアメリカのナショナル・ジオグラフィック協会が発表した。コロ語と呼ばれる言語で話者は約800人。世界各地で言語が失われつつあるなか、「新発見」はめずらしい。アルチャナルプラデシュ州の近くの村にはアカ語とミジ語という現地語があるが、例えば山をアカ語でピュというのに対し、コロ語では「ンゴ」というなど、大きな違いがある。コロ語はチベット・ビルマ語族に属するが他の400の言語の何れにも近いものがなく別の言語と判定された。協会によると、世界で約7千の言語が話されているが、半分が絶滅の危機にある。コロ語も話す人に20歳未満が少なく絶滅する可能性があるという。この地は中国とインドの国境紛争地帯で立入が難しかったため、言語学的研究が進んでいなかった。<朝日新聞2010年10月8日の記事による>

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