ヒンディー語
インドで最も広く用いられ公用語の一つとされている言語。イギリス植民地時代に、ウルドゥー語などをもとに作られた人工的な言語である。
インド=ヨーロッパ語系の言語である古代インドのサンスクリット語から分化し、主に北インドのデリー周辺で用いられていた言語(ヒンドゥスターニー語、カリー=ボーリー方言とも言う)に、各地の言葉が統合され、インドの共通語となったもので、現在のインドの公用語とされている。 → インドの言語
しかし、現在も南インドのタミル語圏(タミルナードゥ州)などではヒンディー語への反発が強いため、地方語の使用、英語の併用も事実上認められている。
イギリス植民地化で作られたヒンディー語
ただし、ヒンドゥー語が普及する前に、インドではデリー=スルタン朝からムガル帝国に続いた長いイスラーム王朝による支配が続いたため、ペルシア語とヒンドゥスターニー語などが融合してウルドゥー語が使われていたことに注意する必要がある。それに対して、イギリスの植民地化が進むと、イギリスがイスラーム教徒とヒンドゥー教徒を分離する施策を採ったこともあって、ウルドゥー語からペルシア語やアラビア語の語彙を取り除いた人工的な言語としてヒンディー語が使われるようになった。それは主としてアラビア語に代えてインド固有のデーヴァナーガリー文字を用いて筆記するという文章語として用いられていた。英語とヒンディー語
インド=ヨーロッパ語系に属しているサンスクリット語から分岐、発展したヒンディー語などの北インドの諸言語は、英語やドイツ語などと親戚関係にあり、そこには音韻が対応関係が認められている。例えばヒンディー語の父はピターは英語のファーザー、母のマーターはマザー、中心のケーンドラはセンターに対応している。中村平治『インド史への招待』1997 吉川弘文館 p.43ヒンディー語の公用語化
1947年、インドの分離独立となってインドとパキスタンが別個の国家となった。さらにインド連邦は、1950年にインド共和国となった。そのときの1950年憲法でヒンディー語を公用語と定めた。ついで1965年に公用語法を定め改めて連邦の公用語として確定した。しかし、現在も南インドのタミル語圏(タミルナードゥ州)などではヒンディー語への反発が強いため、地方語の使用、英語の併用も事実上認められている。
(引用)インド共和国では、話者人口その他、いろいろの重要度を考慮して、多数の言語を憲法に記載し、同時に連邦レベルと州レベルでの公用語を定めている。そもそもインドでは、ある一つの有力な言語がまとまって話されている地域が州にされていて、多くの場合その言語は州レベルでの公用語とされているのであるから、大雑把にいえば、州の数に近い公用語があることになる。ただし、その州の最有力言語ではなくても、いろいろの事情で、ヒンディー語や英語を公用語とする州もあり、州の数と公用語の数は一致しない。
そのような状況なので、国語となると、さらに難しい問題が起こってくる。インド政府は、話者人口が一番多く、かつ首都圏の言語であるヒンディー語を国語にすべく、独立以来いろいろの方策を講じているものの、それを唯一の国語にしようとすると、決まって南部のタミル・ナードゥ州から反対の声が上がる。対応を誤ると、暴動が起こるのである。タミル語は、ヒンディー語の属するアーリヤ系統と異なるドラヴィダ系統の言語であって、タミル語を母語とする人たちにとっては、ヒンディー語を国語にすることは、実利的にも、感情的にも我慢ならないことなのである。タミル・ナードゥ州で当時政権にあった政党は、元来反アーリヤ、反ヒンディーという政策によって力を伸ばしてきたのであった。<辛島昇『インド史』2021 角川ソフィア文庫 p.15>