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セウタ

ジブラルタル海峡に面するアフリカの港で、1415年にポルトガルが征服。アフリカ西岸進出の拠点とする。19世紀後半からスペイン領となる。

ジブラルタル海峡 GoogleMap

 イベリア半島とアフリカ大陸の間のジブラルタル海峡のアフリカ・モロッコ側にある港町。1415年ポルトガルのジョアン1世はエンリケ王子らを派遣してこの地を攻略し、それを期にポルトガルのアフリカ西岸探検が始まった。

ポルトガルのセウタ征服

 セウタはジブラルタル海峡の対岸に位置し、北アフリカのイスラーム勢力の拠点であり、海賊の根拠地でもあった。ポルトガルのジョアン1世はレコンキスタの延長としてセウタの攻略をめざすとともに、アフリカ内陸のスーダンからもたらされセウタに集積する金や、モロッコ沿岸の穀物資源の獲得を狙った。
 1415年7月25日、ポルトガル船大小200隻に兵と水夫5万が乗り組み、イギリス人やフランス人も加わってリスボン港を出港した。8月21日、不意をついて入港し、激しい戦闘のすえに占領した。しかし、軍事的な占領は成功したものの、期待したスーダンからの金はピタリと流入が止まり、ポルトガル商人の目はモロッコ沿岸に向かい、その豊かな穀物を買い受けることに専念した。ポルトガル王室はモロッコの穀物資源を確保するためセウタを橋頭堡としてモロッコ全土を支配しようとした。
 ジョアン1世の次の国王ドゥアルテは1437年、セウタの西の港タンジール(現在のタンジェ)を獲得しようとしてエンリケ王子とその弟フェルナンド王子の指揮するポルトガル軍がフェスのイスラーム軍と戦った。しかしポルトガル軍はフェス軍に包囲されフェルナンド王子を人質としてようやく脱出した。フェス軍はセウタの返還を要求したがポルトガルが拒否したため、フェルディナント王子は殺された。モロッコの内陸に進出することができなかったポルトガルは、エンリケ王子が主導してアフリカ西海岸への海洋進出に転換していく。次のアフォンソ5世は再びモロッコ侵攻をはかり、1463年から数次にわたってタンジールを攻撃し、1471年にその地を征服した。<青木康征『海の道と東西の出会い』世界史リブレット25 1998 山川出版社 p.23-24,29>

スペイン領となる

 その後、1580年にスペインのポルトガル併合によってセウタもスペイン領となり、その後ポルトガルが独立してからもスペイン領として現在に至っている。スペインは19世紀後半にこの地を含むモロッコ北部などを保護領として支配したが、そのリーフ地方では1920~26年には激しい反植民地闘争でありリーフ戦争が起こっており、一時はリーフ共和国が独立を宣言したが1926年に鎮圧された。モロッコ王国は、第二次世界大戦後の1956年に独立を達成するが、セウタだけはスペイン領として残され、現在もアフリカ大陸の中のスペイン領としてとどまっている。

NewS モロッコ移民希望者が殺到

 2021年5月19日の報道によると、ジブラルタル海峡のモロッコ側にあるスペインの飛び地セウタに、17~18日にかけて多数のモロッコからの移民希望者が国境を越えて渡ろうとして押しかけた。セウタはスペイン領なので、昔からアフリカからヨーロッパに渡ろうとする移民や難民があつまる「玄関口」であった。モロッコとセウタの間には柵が設けられ、さらにセウタとスペイン本土の間には約20kmのジブラルタル海峡があるが、移住希望者は柵を乗り越えてセウタに入り、海に飛び込んでスペインを目指そうとしたという。すでに8千人がセウタに不法に入り、海に飛び込んで死者も出ているという状態で、スペイン当局は軍隊を派遣して取り締まりに当たり、逮捕者はモロッコへの送還を行っている。
 モロッコからの脱出者が急増した背景には、モロッコで西サハラ(旧スペイン領)の分離独立運動が続いており、対立が深まっていることが考えられる。 → <デジタル朝日新聞 2021/5/19
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