エンリケ
15世紀前半のポルトガルの王子。盛んに海洋進出を行ってアフリカ西岸に艦隊を派遣、大航海時代の先鞭を付け、航海王子として知られている。
エンリケ航海王子
Henrique el Navogador 1394-1460
エンリケ(Henrique)の英語読みはヘンリ。Henry the Navigator 15世紀の前半、ポルトガルの国王ジョアン1世(アヴィス朝、在位1385~1433)の王子であったが、兄・甥が王位を継いだので生涯王位にはつかなかった。もっぱらアフリカ西岸探検事業に熱心に取り組み「航海王子」と言われ、大航海時代の始まりを告げる役割を担っている。彼は「キリスト騎士団長」に任命されており、宗教的情熱のよりどころであると共にその財政的基盤となっていた。
この征服は、レコンキスタの延長であるとともに、封建領主層の領地獲得要求、ポルトガルのリスボンなどの商人の市場拡大要求などが背景にあり、また直接的には金の獲得が期待された。しかし、ポルトガルのモロッコ征服はイスラーム教徒の抵抗を受け、全土に及ばなかった。征服をすすめようとしたエンリケは1437年にタンジール攻略を試みたがそれには失敗し、以後は海洋進出に主眼を置くように転換する。
エンリケ王子の許可制になってから民間人への通行許可は増加し、捕らえられる黒人奴隷の数も増えた。1444年、サラゴサの徴税吏ランサローサは、6隻のカラベラ船を仕立て、ブランコ岬で「サンチャゴ!」と叫びながら海岸の住民に襲いかかり、235名を捕獲した。そのうち46名を5分の1税としてエンリケ王子らに納め、残りは奴隷として競売にかけた。ズスラの年代記によれば、1441年~48年までに合計51隻のカラベラ船がギニアに出かけ927名が奴隷にされた。<青木『同上書』p.28>
しかし、ポルトガル史の専門家金七紀男氏の『ポルトガル史』は「エンリケが創ったとされる有名なサグレス航海学校は、エンリケにまつわる伝説の一つに過ぎず、その存在を証明する記録は何もない。」とそっけない。<金七紀男『ポルトガル史』1996 彩流社 p.77> 最近刊行されている世界史辞典類も、山川出版社『世界史小辞典』を含めて、エンリケ王子のサグレスの天文台や航海学校に対しては否定的な記述をしている。
セウタの征服
まず1415年にエンリケは兄ドゥアルテ、弟ペドロと共に父ジョアン1世に従い、モロッコのセウタを征服した。セウタはアフリカ北岸、ジブラルタル海峡に面し、サハラ南部からの金などが集積される商業都市の一つ。モロッコ(当時マリーン朝)はすでにサトウキビの豊かな産地であった。この征服は、レコンキスタの延長であるとともに、封建領主層の領地獲得要求、ポルトガルのリスボンなどの商人の市場拡大要求などが背景にあり、また直接的には金の獲得が期待された。しかし、ポルトガルのモロッコ征服はイスラーム教徒の抵抗を受け、全土に及ばなかった。征服をすすめようとしたエンリケは1437年にタンジール攻略を試みたがそれには失敗し、以後は海洋進出に主眼を置くように転換する。
アフリカ西岸の探検
エンリケが派遣した探検隊は、まず1420年にマディラ島、1431年にアゾレス諸島に到達した。大きな転換点となったのは、1434年にエンリケが派遣した船隊がボジャドール岬を超えたことであった。さらにエンリケの派遣した船団は1441年にリオ=デ=オロに達し、その地で初めてアフリカの黒人を黒人奴隷として捕らえ、本国に連れ帰った。1445年にアフリカ最西端のヴェルデ岬を廻り、現在のギニア地方に至り、47年には現在のシエラレオネに達した。またエンリケの派遣した船隊はアフリカ西岸に関する様々な情報をもたらし、大陸の南端を回ってインドに行くことができるかも知れないという可能性を明らかにした。Episode 恐怖のボジャドール岬
(引用)誰もそこから先へは決して船を遣ろうとしなかった――現代地図の上では殆ど目につかぬ程の障害であり、低い砂地なので接近して初めて視認できるのだが、それでもなお、油断のならない潮流や暗礁、そして時にその向こうに待伏せている迷信的な恐怖の数々の故に、全く通過不可能とされていた難所であることに変わりはなかった。エンリケ麾下の乗組員達は皆例外なくこの岬の手前で引返し、彼らの被った迷惑の帳尻を合わせるべく沿岸のムーア人部落を襲うことで鬱憤を晴らしていた。この岬を越すと、それを考えただけでアラビア人地理学者の血を凍らせたという晦冥の海が展け、その向こうには白人が黒ん坊になってしまう炎熱地帯が待っているのである。<ボイス・ペンローズ『大航海時代』1952 荒尾克己訳 筑摩書房刊 p.47>1433年にエンリケの命で派遣された老練な船長ジル=エアンネスもつきまとう恐怖を覚えてカナリア諸島以南には踏み込めなかったが、翌年エンリケは二度目の挑戦を命じ、エアンネスは今度は成功した。この成功はガマやコロンブスの航海に比べて目立たないが、“未知の海”に乗り出した重要性は評価できるとされている。
エンリケの船隊派遣の目的
エンリケが船隊をアフリカ西岸に派遣の目的はインドへの新航路開発や香料貿易にあったのではなく、当初はアフリカの黄金の獲得、アフリカ西岸に存在すると信じられていたキリスト教君主のプレスター=ジョンを探すことにあった。プレスター=ジョンを捜し出すことは出来なかったが、サハラ南部の現在のシエラレオネまで到達し、イスラーム教徒を介さずに黒人社会に接触し、内陸の金・奴隷を獲得する契機となった。特に奴隷の獲得は早くもエンリケの時代からポルトガルのアフリカ進出の主要な目的となり、黒人奴隷貿易が開始された。さらにエンリケの死後、アジアとの香辛料貿易の可能性を探るべく、インド航路の開拓に主眼が移ることとなる。黒人奴隷貿易の開始
エンリケ王子の航海事業を伝える資料である年代記作者ズララの記した『ギネー年代記』によれば、王子がセウタ攻略戦に参加したときに得た情報が、アフリカ西海岸航海事業に乗り出すきっかけとなったという。セウタから帰った1418年か19年のマディラ諸島に始まり、1439年には国王アフォンソ5世からアゾレス諸島開拓事業の許可を得た。また1422年から12年間、毎年、ノン岬以遠の海岸に船を出した。その結果、1434年、王子に仕えるジル=エアネスは難所のボジャドール岬を突破した。その後、1441年にアンタン=ゴンザルヴェスがリオ=デ=オロで黒人と出会い、2名を捕虜にした。同じくヌーノ=トゥリスタンはリオ=デ=オロで先住民に戦いを仕掛け、10名を捕虜にした。黒人奴隷が手に入り、探検航海は勢いづく。1442年、ゴンザルヴェスは新たに10人の捕虜を入手した上で少量の砂金を手にし、翌43年、トゥリスタンはブランコ岬を通過し、アルギン湾で14名を捕虜にした。王子の個人事業から国家事業へ
(引用)こうしてポルトガルは、ボシャドール岬を突破してから10年ののち、黄金の地であるギニアに到着した。とともに、ポルトガルの航海事業は新たな段階にはいる。というのも、ノン岬を通過してアルギン湾に到達するこれまでの航海事業はエンリケ親王がキリスト騎士団総監として運用できる潤沢な資金と家臣を投入して実行できたもので、一言で言えば、エンリケ親王の個人事業であった。しかし、どこまでも続く不毛の海岸を見たあと、黒人奴隷、砂金、アザラシの皮といった経済的利益が獲得できるようになると、ギニアの海は、もはやエンリケ親王だけのものというわけにゆかず、王国民に開放されることになった。<青木康征『海の道と東西の出会い』世界史リブレット25 1998 山川出版社 p.25-26>しかし、エンリケ王子は自分が心血をそそいで育ててきた事業を簡単には手放さない。1443年、ボシャドール岬以遠への航海はエンリケ王子の許可制とし、王子が仕立てた船の利益は非課税だが、許可を得た船の利益には税としての5分の1の半分は国王、半分はエンリケ王に収めなければならないとした。46年には利益の5分の1全額をエンリケ王子におさめることになり、その特権は拡大され、さらに49年にはボシャドール岬以近にも適用されることになった。
エンリケ王子の許可制になってから民間人への通行許可は増加し、捕らえられる黒人奴隷の数も増えた。1444年、サラゴサの徴税吏ランサローサは、6隻のカラベラ船を仕立て、ブランコ岬で「サンチャゴ!」と叫びながら海岸の住民に襲いかかり、235名を捕獲した。そのうち46名を5分の1税としてエンリケ王子らに納め、残りは奴隷として競売にかけた。ズスラの年代記によれば、1441年~48年までに合計51隻のカラベラ船がギニアに出かけ927名が奴隷にされた。<青木『同上書』p.28>
エンリケの死後
ポルトガルの大航海時代というとエンリケ航海王子の時にすべての成果があったように誤解しがちであるが、そうではなく、彼はその先鞭をつけて基礎を作ったにとどまる。アフリカ南端への到達とインド航路の開拓成功はエンリケの死(1460年)以後であることに注意しよう。次のジョアン2世の時にバルトロメウ=ディアスが喜望峰到達し、さらにその次のマヌエル王の時にヴァスコ=ダ=ガマによるインド航路の開拓が行われている。Episode 船に乗らなかった「航海王子」
エンリケは「航海王子」として名高いが、実はほとんど航海らしい航海はしていない。一説には船酔いがひどかったため、と言われている。しかし航海への情熱は強く、イベリア半島の南端サグレスの城にこもり、航海術や地図の作製などを行わせた。このサグレスの城は後にイギリスのフランシス=ドレークによって破壊されてしまったとされている。エンリケの航海学校は疑問
航海王子エンリケは自らは航海を行わなかったが、前述のようにサグレスの城で一種の航海学校を作り、そこで天文学や航海術を研究し、探検を指揮したとされている。山川出版社の『世界史B用語集』でも「天文台や航海探検センターを開設」となっており、他の参考書などにも同様の記述が多い。よく読まれたボイス・ペンローズの『大航海時代』では、父王からアルガルヴェ(ポルトガル南端の州)の総督に任命されたエンリケは「同州南西端のサグレスに落着き、大西洋のうねりが三方から押し寄せるその聖なる岬“サン=ヴェセンテ岬”に小規模の宮殿、天文台(ポルトガル最古のもの)、礼拝堂及び使用人・従者達の村を建設した。以後サグレスはエンリケの生涯に亙る事業の指揮中枢となる。」とし、エンリケ王子がここに創った学術研究所については、具体的な資料のないことを嘆きながら、「けれどもエンリケが自らの周りに宇宙形状誌学者、天文学者、医師等の一団を集め、その多くはユダヤ人であり一部はスペイン系ムーア人(イスラーム教徒)ですらあったこと、及びその長はマヨルカ島から来たユダヤ人ヤコメ先生であり、その父は有名が1375年の『カタロニア地図帳』の作者アブラハム・クレステスであったこと、が知られている。彼を取り巻くこれらの学者達と共にエンリケはサグレスで宇宙形態論や数学の研究に没頭した。・・・」と説明している。<ボイス・ペンローズ『大航海時代』1952 荒尾克己訳 筑摩書房刊 p.44>しかし、ポルトガル史の専門家金七紀男氏の『ポルトガル史』は「エンリケが創ったとされる有名なサグレス航海学校は、エンリケにまつわる伝説の一つに過ぎず、その存在を証明する記録は何もない。」とそっけない。<金七紀男『ポルトガル史』1996 彩流社 p.77> 最近刊行されている世界史辞典類も、山川出版社『世界史小辞典』を含めて、エンリケ王子のサグレスの天文台や航海学校に対しては否定的な記述をしている。