カルロス1世/カール5世
16C前半の神聖ローマ皇帝。ドイツ王、スペイン王(カルロス1世)などを兼ねヨーロッパ最大の勢力を有した。その時ドイツでは宗教改革が始まる。またフランスとのイタリア戦争を戦い、東方ではオスマン帝国の侵攻を食い止めた。またこの時、マゼランの世界周航やコルテス、ピサロなどのアメリカ大陸文明の征服などがおこなわれその領土は全世界に及んだが、退位後、ハプスブルク家領はスペインとオーストリアに分割された。
神聖ローマ帝国皇帝カール5世
神聖ローマ帝国皇帝に選出される
1516年からスペイン王を兼ね、カルロス1世とも称す。ついで、1519年、神聖ローマ皇帝をフランス王フランソワ1世と争い、選出されてカール5世となる。こうしてハプスブルク家の皇帝として、神聖ローマ帝国に君臨すると同時にドイツ王であり、オーストリア、ネーデルラント、スペイン、ナポリ王国などを相続し、またスペイン王としては新大陸に広大な領土を所有した。折からドイツで1517年にルターが登場して、宗教改革が始まった。カール5世は、1521年にヴォルムス帝国議会を開催してルターを召喚、その主張の撤回を迫った。ルターが自説を撤回しなかったのでヴォルムス勅令を発してルターの活動を禁止した。
一方、1521年以来、宿敵フランスのフランソワ1世とはイタリア戦争を戦い、1527年にはフランス側についたローマ教皇を圧迫するため、「ローマの劫略」を行った。一方で、東方からのオスマン帝国のスレイマン1世の脅威にもさらされた。
カールの時代は、まさに大航海時代にあたっており、1519年にはマゼラン船団を出発させ、西回りでアジアに到達するルートを探らせた。翌年、マゼラン海峡を通過、太平洋を横断し、フィリピンに到達した。また、征服者といわれるコルテスとピサロがさかんに新大陸での活動を行い、南北アメリカ大陸の植民地を獲得した。
しかし、1546年におこって宗教対立から転化したドイツ農民戦争に続き、さらにシュマルカルデン戦争というドイツ国内の宗教戦争が起こり、宗教対立が深刻になる中、広大な領土を駆け巡ったカール5世は次第に心身共に疲弊し、1556年にはスペイン、マドリッドで引退した。
※カール5世 関係年表
16世紀のヨーロッパ情勢は彼を中心に廻っていたとも言えるキーパースンなので、やや詳しく、彼の足跡を述べてみよう。- 1500年
- 父はブルゴーニュ公フェリペ(神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世の皇子)、母はスペインの王女ファナ。ブルゴーニュ公の居城があったガン(現在のオランダのヘント)で生まれ、その宮廷で育ち、父からブルゴーニュ公国を継承。
- 1516年
- 母方の祖父のフェルナンド王の死によって、スペイン王を継承(カルロス1世)。ナポリ王国国王も兼ねる。
- 1517年
- ルターの宗教改革始まる。
- 1519年
- 父方の祖父のマクシミリアン1世の死によって、ドイツ王となる。
神聖ローマ皇帝の地位をフランス王フランソワ1世と争い、選出されてカール5世と称し、翌年アーヘンで戴冠式を挙げる。
スペイン王として、マゼランを西回りでアジアに到達するルート開拓に派遣。 - 1520年
- スペイン、カスティリャ地方の反乱起きる。
- 1521年
-
3月 マゼラン、フィリピン到達。皇太子の名で命名。
4月 ヴォルムス帝国議会を開催。ルターに主張の撤回を迫る。拒否したルターをヴォルムス勅令によって国外追放処分とする。
5月 フランス王フランソワ1世がイタリアに侵攻。イタリア戦争が再燃。
8月 コルテス、アステカ王国を征服。 - 1522年
- マゼラン船団の一部、セビリアに帰港。世界一周を達成。
- 1524年
- ドイツ農民戦争始まる。~25年。
- 1525年
- パヴィアの戦い。フランス王フランソワ1世と戦い捕虜とする。(イタリア戦争の継続)
- 1526年
- オスマン帝国(スレイマン1世)がハンガリーを占領。シュパイアー帝国議会(第1回)でルター派の信仰を認める。
- 1527年
- フランス王を支持したローマ教皇に圧力を加えるため、皇帝軍をローマに進撃させ破壊。「ローマの劫略」
叔母のキャサリンとの離婚をローマ教皇に要請したイギリスのヘンリ8世を非難し、離婚に反対する。 - 1529年
- 4月、シュパイアー帝国議会(第2回)再びルター派を否定する。ルター派諸侯、抗議文を発する。
6月、ローマ教皇クレメンス7世と和睦。皇帝軍、フィレンツェを包囲(翌年陥落)。
9月、オスマン帝国軍(スレイマン1世)、ウィーン包囲(第1次)。フェルディナント(カールの弟)が防衛。 - 1530年
- ローマ教皇クレメンス7世、カール5世にロンバルディア王および神聖ローマ皇帝の冠を授ける。
- 1533年
- ピサロがインカ帝国を征服。大量の金銀がスペインにもたらされる。
- 1534年
- オスマン帝国に奪われたチュニス(ハフス朝)を奪回するために出兵。2万人の捕虜を解放する。~5年
- 1538年
- プレヴェザの海戦で、オスマン帝国海軍に敗れる。
- 1545年
- 宗教対立の和解を目指しトリエント公会議を召集したが、両派の対立深まる。南アメリカでポトシ銀山発見。
- 1546年
- 新教諸侯軍と戦い、皇帝軍勝利する(シュマルカルデン戦争)。ドイツ諸侯の反発を受ける。~7年
- 1555年
- 弟フェルディナントにまかせ休養。アウクスブルクの和議。プロテスタントの信仰を認める。
- 1556年
- 退位。スペインのマドリード西方の修道院に隠棲。
- 1558年
- 死去。
神聖ローマ皇帝に選出される
神聖ローマ皇帝は、1356年の金印勅書以来、七選帝侯によって選出されることになっていた。1438年以降はほぼハプスブルク家が独占していたが、1519年に神聖ローマ皇帝ハプスブルク家のマクシミリアン1世が死んだとき、フランス王フランソワ1世も名乗りを上げ、カルロス1世との間で皇帝選挙が行われることになった。イタリア戦争を戦っている二人にとって負けられない選挙であったので、選帝侯を買収するためにカルロスは金貨2トンを、フランソワは金貨1.5トンを用いたと言われている。カルロスは選挙資金をドイツの鉱山・金融王フッガー家に頼んで調達し、選帝侯全員一致をの支持を取り付け選出された。Episode カール5世は何国人か?
カールはドイツ王・神聖ローマ帝国皇帝を出したハプスブルク家の出身であったが、昔からのハプスブルク家の、全ヨーロッパに張り巡らした婚姻政策が続いたため、純粋なドイツ人とは言えなくなってしまっていた。父(フィリップ)の両親つまり祖父と祖母は、祖父マクシミリアンでドイツ人(その母はポルトガル王女)だが、祖母マリアはブルゴーニュ公国の王女でフランス人。また母のファナ(狂女ファナ)は父フェルナンド(アラゴン王)、母イザベラ(カスティリャ女王)で両方ともスペイン人。だから3代前にさかのぼればカールにはドイツ人の血は8分の1しか流れていない。しかも生まれたのは父の領地ブルゴーニュ公国のガンで、育ったのもブルゴーニュ(つまりフランス語文化圏)、スペインに初めて行ったのはスペイン王となった16歳の時だった。その後、ドイツ王・神聖ローマ帝国皇帝となるが、彼はフランス語とスペイン語は話せたが、ドイツ語はほとんど話せなかったという。しかし、カール5世ほど全ヨーロッパを駆けめぐった人は珍しい。彼自身の言葉によれば、「私はドイツへ9回、スペインへ6回、イタリアへの7回出陣した。ここ(ブリュッセル)へも10回やってきた。フランスへは和戦含めて4回、イギリスへは2回、そしてアフリカへは2回。全部で40回も旅をしたことになる・・・」という。<加藤雅彦『図説ハプスブルク帝国』2004 河出書房新社 p.21>カール5世の称号
カールが1519年9月5日に、神聖ローマ皇帝選挙に当たっての告示で自分をどのように名のったか、見てみよう。そこに、当時の彼の権力の及んだ範囲がのべられている。(引用)余ドン・カルロスは神の恩寵によって選ばれたるローマ人の国王であり、いかなる時にあっても崇高な今日以降の皇帝であり、カスティリア、レオン、両シチリア、エルサレム、グラナダ、ナバラ、トレード、バレンシア、ガリシア、マジョルカ、セルビア、サルディニア、コルドバ、コルシカ、ムルシア、ハエン、アルガルベン、アルヘシラス、ヒブラルタル、カナリヤ諸島、大西洋中の国々の王であり、オーストリア大公、ブルグンドおよびブラバンド公爵、バルセロナとフランドルとティロルの伯領、ビスカヤとモリナの君主、アテネおよびネオパトリア公爵、ルシジョンとセルナダの伯領、オリスタンおよびゴシアノ公爵である」<ヴァントルツカ『ハプスブルク家』1981 谷沢書房 p.128>
ハプスブルク家の分裂
カールは引退にあたり、ネーデルラント、スペイン(南イタリア含む)を子のフェリペ2世に与え、神聖ローマ帝国は弟のフェルディナントに譲った。これによって、ハプスブルク家はスペイン=ハプスブルク家とオーストリア=ハプスブルク家に分裂することとなった。 → ハプスブルク家の分裂Episoce カール5世 隠棲は本当か
カール5世は56歳になったとき、長年の統治に疲労し、幻滅を覚え、ユステ修道院に隠棲し、修道士として晩年を過ごした、と多くの伝記が述べている。1931年に書かれたシュナイダーの伝記では、カールは自らの死者ミサを執り行い、空の棺の前で涙を流して祈ったという。しかし、カールが健康状態に自信をなくして退位したことは事実であるが、実は、サン・ヘロニモ・デ・ユステ修道院の隣に離宮を建ててそこで暮らしたのであり、修道院に入って修道士と同じように隠棲したのではなかった。離宮は宮殿とは言えないまでも瀟洒なものであったし、たくさんの用人に囲まれ、多くの人とそこで面会した。(引用)そして相変わらず国事に関与し、奇妙なことになお皇帝として署名していた。カールは、この生涯の最後の一年半にその食習慣も変えなかった。しょっちゅう医師たちから注意されていたのに、食欲は抑え難く、その結果を顧慮せずにカールはいつも過食を続けていた。若い頃から痛風もちだった。マラリアにも苦しんでいたのだ。いつも大量の肉を平らげ、ワインをたくさん飲んだ。カールは、自分の激しい食欲を抑えることが出来なかったので、聖体拝領の前の断食の義務から、教皇の特赦によって解放されていた。カールはマラリア熱のために、1558年9月21日離宮で死去、享年58歳だった。<ゲールハルト=プラウゼ/森川俊夫訳『異説歴史事典』1991 紀伊國屋書店 p.195-197>