ラファエロ
ラファエロ『自画像』25歳頃
15~16世紀、イタリア=ルネサンスの盛期にローマなど活躍した画家、建築家。『聖母子像』、壁画『アテネの学堂』などが代表作。
ラファエロ、本名ラファエロ=サンティオ(Raffaello Sanzio 1483~1520)。父親はウルビーノを治めていたモンテフェルトロ家に仕える画家兼詩人であったが、ラファエロ11歳の時に亡くなった。その母もすでに8歳の時に亡くしている。孤児になったラファエロは若くしてペルージャの画家ペルジーノの工房に入り徒弟となった。ペルジーノはフィレンツェのヴェロッキオ工房に学び、レオナルド=ダ=ヴィンチの兄弟子にあたる人であった。
ローマでの活躍 1508年、同郷のブラマンテの推薦でローマに招かれ、ローマ教皇ユリウス2世のもとで「教皇庁の芸術家」という最高の地位に就く。ラファエロはヴァチカン宮殿の装飾を担当し、26歳で「署名の間」に『アテネの学堂』(下掲)を完成させた。次の教皇レオ10世のもとでもその仕事は続き、短期間に完成させた大作が現在もヴァチカン宮殿を飾っている。これらはルネサンス絵画の集大成と言われている。
ラファエロ『椅子の聖母子』1514頃
聖母子像 ラファエロは短期間に作品を仕上げる天才(その点でダ=ヴィンチが遅筆であったことと対照的)とされ、多くの注文主が殺到した。『聖母子像』など大量に残る作品はそのような注文によって描かれたものであるが、それはラファエロの工房で分業制によって描かれたものであった。
サン=ピエトロ聖堂 1514年のブラマンテ死後はサン=ピエトロ大聖堂の建設の指揮を執り、建築家としても才能を発揮した。 1515年にはレオ10世から「古代遺物監督官」に任命され、古代ローマの建築物の発掘と調査、現物の保存と図面の記録など、現在でいえば文化財保護の仕事もしている。
美術史では、1520年のラファエロの死を以て、ルネサンスの終わりとし、マニエリスムがはじまるとされることが一般的である。もちろん突然この年で様式が変わるわけではないが、すでにレオナルド=ダ=ヴィンチは1517年にフランスに去っており、ラファエロの没年1520年をもって両様式の時期区分とされている。ミケランジェロはなおもローマで活動を続け、『最後の審判』を制作するが、それは従来のルネサンス様式を遙かに逸脱しているとの見解もある。
以下に『アテネの学堂』の人物部分だけを抜き出し、一般的に知られている人物に番号を付した。( )内でラファエロがモデルにしたと思われる人物名を示した。ただし、この人物比定はラファエロ自身が言っているのではなく、あくまで推定である。さらに詳細に比定を行っている美術史家もいるが、ここではよく知られた人物に絞った。
ラファエロ 『アテネの学堂』 1509-1510
ラファエロの人と作品
フィレンツェ 1504年、21歳のラファエロはフィレンツェに移住した。そのころのフィレンツェは独裁者メディチ家を追放し、共和政国家を再建、ダ=ヴィンチ(50歳代)とミケランジェロ(30歳代)が活躍しているルネサンスの最盛期であった。ローマでの活躍 1508年、同郷のブラマンテの推薦でローマに招かれ、ローマ教皇ユリウス2世のもとで「教皇庁の芸術家」という最高の地位に就く。ラファエロはヴァチカン宮殿の装飾を担当し、26歳で「署名の間」に『アテネの学堂』(下掲)を完成させた。次の教皇レオ10世のもとでもその仕事は続き、短期間に完成させた大作が現在もヴァチカン宮殿を飾っている。これらはルネサンス絵画の集大成と言われている。
ラファエロ『椅子の聖母子』1514頃
サン=ピエトロ聖堂 1514年のブラマンテ死後はサン=ピエトロ大聖堂の建設の指揮を執り、建築家としても才能を発揮した。 1515年にはレオ10世から「古代遺物監督官」に任命され、古代ローマの建築物の発掘と調査、現物の保存と図面の記録など、現在でいえば文化財保護の仕事もしている。
ラファエロの死 1520年
ラファエロは1520年4月6日、誕生日に37歳で早世した。ほぼ完成に近い状態にあった『キリストの変容』が遺作となった。その死んだ日が自身の誕生日であり、しかも聖金曜日であったことから彼の神格化が始まり、ラファエロの死の瞬間にヴァチカン宮殿の壁にひびが入ったといった伝説も生まれた。その墓はローマのヴァチカン宮殿の中のパンテオンに作られており、隣には婚約者だったマリア・ビッビエーナの墓がある。1833年9月に行われた調査ではラファエロの身長は166センチだった。<池上英洋『ルネサンス③巨匠の物語』2013 光文社新書 p.221-240>美術史では、1520年のラファエロの死を以て、ルネサンスの終わりとし、マニエリスムがはじまるとされることが一般的である。もちろん突然この年で様式が変わるわけではないが、すでにレオナルド=ダ=ヴィンチは1517年にフランスに去っており、ラファエロの没年1520年をもって両様式の時期区分とされている。ミケランジェロはなおもローマで活動を続け、『最後の審判』を制作するが、それは従来のルネサンス様式を遙かに逸脱しているとの見解もある。
参考 ラファエロの死はルネサンスの終わりか
このラファエロの死を以てルネサンスが終わったとする説は、ヴァザーリ(1511~74)というフィレンツェで活躍した画家、建築家、兼美術史家が言ったことで『名匠列伝』(1550)と言う書物で広く受け入れられた。しかし、現在では、ヴァザーリの説はフィレンツェだけに限定されるべきで、ヴェネツィアでは16世紀を通じて活発な創作活動がおこなわれているとして、ラファエロの死を以てルネサンスが終わるというのは偏見にすぎないとする方が有力である。ヴェネツィア派にはティツィアーノ(1477?~1576)などが活躍しているが日本の高校世界史では無視されている。<代ゼミ教材センター越田氏のご指摘による>作品 ルネサンス絵画の総合『アテネの学堂』
ヴァティカン宮殿署名の間の『アテネの学堂』には、たくさんのギリシアの学者を描き込んでいる。中心の二人はプラトンとアリストテレスで、左のプラトンは右手で天上を指し「イデア論」を主張していることを示しており、アリストテレスはそれに対して右手で地を指し示し「形相」を説いたことを示している。またラファエロはこれらの歴史上の人物を描くのに、同時代の芸術家をモデルにしている。例えば、プラトンはレオナルド=ダ=ヴィンチ、哲学者ヘラクレイトスはミケランジェロ、数学者ユークリッドはブラマンテをモデルにしたと言われている。以下に『アテネの学堂』の人物部分だけを抜き出し、一般的に知られている人物に番号を付した。( )内でラファエロがモデルにしたと思われる人物名を示した。ただし、この人物比定はラファエロ自身が言っているのではなく、あくまで推定である。さらに詳細に比定を行っている美術史家もいるが、ここではよく知られた人物に絞った。
ラファエロ 『アテネの学堂』 1509-1510