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ゾロアスター/ツァラトゥストラ

ゾロアスター教の創始者。生没年代には前1200年から前600年の間であるがはっきりしない。一種の宗教改革を行い、イラン人の伝統的な祭祀的宗教から脱して、善悪二神の対抗とされる世界観などを核としたゾロアスター教を創始した。ゾロアスター教はササン朝で国教とされ、その後もキリスト教に影響を与え、中国にも伝播して祆教と言われた。ゾロアスターはギリシア以降の西方世界でも知られ、さまざまに変容した姿を見せている。

 ゾロアスターはイランの原音に近い表記ではツァラトゥストラ、ザラトゥシュトゥラとなる。イラン高原に起こった宗教であるゾロアスター教を創始した人物。実在の人であることは確かだが、その時代ははっきりせず、前7世紀ごろとされたり、前1200年ごろから前1000年ごろといわれたりしている。20歳頃から宗教的生活に入り、30歳頃に神の啓示を受けて預言者となったと自称し、40歳代でイラン王の宮廷に迎えられ教えを説いたという。ササン朝時代に教祖像が形成されたが、その実像には不明なことも多く、また古代ギリシアで魔術師の総帥として伝えられて以来、ヨーロッパではその実象からはなれたゾロアスター像が一人歩きし、ルネサンスや19世紀末のニーチェはキリスト教世界観に対抗する世界観の象徴として語られた。

ゾロアスター教

 インドに入ったアーリヤ人と同じくインド=ヨーロッパ語族に属していたイラン人は、アーリヤ人と同じく自然崇拝の多神教で、部族ごとのさまざまな神々を崇拝する密議や呪術が行われていた。しかし前2000年から1500年ごろにかけて鉄器と騎馬術が急速に普及し、旧来の部族的な秩序が崩れ統一の動きが出てきた。そのようなイラン社会のゆるやかな変化から生じた混迷の中から、ゾロアスターは人間の正しい生き方をもとめ、従来の宗教を堕落した形だけの祭祀に過ぎないとして批判し、唯一の真理であり光明である創造神アフラ=マズダに従って正義と秩序を実現し、それに敵対する闇と悪の霊力を持つアーリマンと戦うことを説いた。
 彼が創始したゾロアスター教は紀元前6世紀に成立したアケメネス朝ペルシアの諸王によって篤く尊崇されたことによってイラン人社会にひろがり、さらに紀元後3世紀のササン朝ペルシアでは国教とされ、聖典である「アヴェスター」も編纂された。ゾロアスター教はイラン系商業民族であるソグド商人によって、3~4世紀ごろに中国に伝えられ、唐では祆教(または拝火教)といわれ、長安などでもその寺院が建設された。しかし、7世紀以降、イスラームが急激に浸透してくると、イラン人もイスラーム化し、ゾロアスター教はイランからほとんど姿を消してしまい、現在はイランの一部と中央アジアやインドに残っている。インドでのゾロアスター教徒はパールスィーと言われ、ゾロアスターはその教祖として現在も崇拝されている。

ゾロアスターの変容

 ゾロアスターの存在はペルシア帝国と接触したギリシアでもゾロアステレスとして知られ、アジア的な魔術(マギ)と結びついた。一方ではその最後の審判などの教義は、ユダヤ教を経てキリスト教にも影響を与えた。また、ササン朝時代にゾロアスター教から派生したマニ教は、カルタゴの旧地にいた教父アウグスティヌスも一時信仰していたことで知られている。さらに、ルネサンス期にもギリシア文献を通じてゾロアスターの存在は注目され、キリスト教と異なる世界観とその文明に対する関心が深まった。ラファエロは『アテネの学堂』の一角にゾロアスターを描き込んでいる。
 ゾロアスターの影は近代以降のヨーロッパにおいてもさまざまな変容を重ねながら、現れてくる。1771年以降、『アヴェスター』がヨーロッパ各国語に翻訳されるようになり、ゾロアスターから刺激を受けたモンテスキューヴォルテールら啓蒙思想家にとっても脱教会のシンボルとして捉えられた。18世紀末のモーツァルトはその最後の作品、歌劇『魔笛』で夜の女王の敵役としてザラストロを登場させ、19世紀末のニーチェは晩年の著作『ツァラトゥストラはこう語った』で“神は死んだ”と述べ、超人と永遠回帰の思想をゾロアスターの口から語らせた。その作品にインスピレーションを得たリヒャルト=シュトラウスは交響詩『ツァラトゥストラかく語りき』を作曲(1896年)、その音楽はスタンリー=キューブリック監督の『2001年宇宙の旅』(1968年)のオープニングに使われて広く知られることになった。最も曲解したのがドイツのヒトラーとナチスの御用学者であった。彼らはゾロアスターをアーリヤ人の英雄と見なし、そのヨーロッパにおける分派としてのゲルマン民族の優位を理論づけようとした。一種の宗教体系としてのナチズムに利用されたとも言える。 → YouTube リヒャルト=シュトラウス『交響詩ツァラトゥストラかく語りき』 ズービン=メータ指揮 シュターツカペレ・ドレスデン演奏

ゾロアスターの実像

 以上はゾロアスターについての人名事典風の紹介であるが、その実像はどのような人物であったのか、知りたくなるであろう。世界史の授業ではブッダイエス=キリスト、ムハンマドにはかなりの時間をさくが、ゾロアスターについてはゾロアスター教の教祖として“伝説的”という装飾句付きでふれられるだけだろう。教える側も、ゾロアスターについての一般書は少ないこともあって、生徒に語れる材料を持たない。そこで、分厚い専門書は別として、文庫本や新書の範囲でさがしあてた伊藤義教氏『アヴェスター』の解説、前田耕作氏『宗祖ゾロアスター』(いずれもちくま学芸文庫版)、メアリー=ボイス『ゾロアスター教』(講談社学術文庫)、青木健氏『ゾロアスター教』(講談社選書メチエ)などを読んでみたところ、面白い事実が次々と出てきた。ニーチェにあれほどのインスピレーションを与えたゾロアスターとは、どんな人物だったのだろうか、これらの書物に依って、人物像を探ってみたい。
ゾロアスターの名前 ゾロアスターのアヴェスター語名はザラスシュトラ、パフラヴィー語名はザラトゥシュト、ギリシア=ラテン語名はゾロアストレス、つまりゾロアスターである。その名ザラスシュトラは古代ペルシア語のザラとウシュトラの合成語で、学者によっては「駱駝を扱うことができる者」の意であるとか、「黄金の光」であるとの説がある。彼は、汝は誰であるか、と問われ「ザラスシュトラ・スピターマです」と答えているので姓はスピターマであろう。
存在した時代・場所 ゾロアスターの生まれた年について確認できるものは何もない。日本のゾロアスター教研究の第一人者であった伊藤義教氏は、ゾロアスターが保護を受けたというウィシュタースパ王が、アケメネス朝ペルシアのダレイオス大王の父で宗教改革を行った王ヒュスタスペスと比定できること、その王の入信した年が「アレクサンドロス大王に先立つ258年」という伝承があり、仮にペルセポリス焼却の年(前330年)を起点として258年を逆算すれば、王の入信は前588年となり、そこから、ゾロアスターの生年を前630年としている。<伊藤義教『アヴェスター』1969 解説 ちくま学芸文庫版(2003年) p.231>
 またその生地もギリシア文献にも異説が多く、バクトリアとする説、メディア(イラン)とする説に分かれている。前田耕作氏『宗祖ゾロアスター』では、アヴェスターにあらわれる地名の分析などから、アフガニスタン説が有力になっていると説明している。<前田耕作『宗祖ゾロアスター』1997 ちくま学芸文庫版 p.124>
 なお、ゾロアスターの生年に関しては伊藤説は定説とはなっておらず、比較的新しい書物の青木健氏『ゾロアスター教』では、次のように説明されている。
(引用)紀元前12~紀元前9世紀ごろ、中央アジア~イラン高原東部一帯では、民族移動途上の古代アーリヤ人が、牧畜生活を送っていた。ザラスシュトラ・スピターマは、その古代アーリヤ人の階級社会と多神教信仰のただ中に、ハエーチャスパ族の神官一家の息子として生まれた。神官階級出身である以上、彼は、どのような神格にどのような呪文を唱えてどのような儀式を執行したらどのような効果が得られるかについて、完全に精通していたはずである。・・・それを身につけたザラスシュトラは、古代アーリヤ人社会の知的エリートであった。そのまま現状に満足して暮らしていても、古代アーリヤ人社会で尊敬されて安穏に一生を送れたと思えるのだが、いかなる事情であったのか、20歳の時に、彼は自分が継承した古代アーリヤ人の宗教に反旗を翻した。そして、家出して放浪の旅に出たらしい。・・・<青木健『ゾロアスター教』2008 講談社選書メチエ p.38>
 ゾロアスターを、紀元前1200年頃に、中央アジアの草原で遊牧生活を送っていたイラン人のなかに登場した預言者であると結論づけたのは、イギリスの研究者メアリ-=ボイスで、彼女の説は言語学上のヴェーダ語と古アヴェスター語の差、考古学によるイラン人の移動時期の知見をもとにしている。<M=ボイス/山本由美子訳『ゾロアスター教』2010 講談社学術文庫>
 現代のマニ教研究家山本由美子さんは、メアリーボイス説を継承し、中央公論新社『世界の歴史』4や『マニ教とゾロアスター教』(山川出版社、世界史リブレット4)で、ゾロアスター教の聖典『アヴェスター』の中に残るガーサー語の語形はその時代より後とは考えられず、また北東イラン語の特徴を示しているので、ゾロアスターの生地もイラン高原北東部、つまり現在のアフガニスタンであろうという。その説では、ゾロアスター教の成立は、イランでの鉄器文明の形成と関連づけられている。また、彼女に依れば、ウィシュタースパには同名の王が前12世紀にいたとして、ゾロアスターも前1200年から1000年ごろの人としている。<山本由美子『世界の歴史』4 オリエント世界の発展 1997 中央公論新社 p.124>

Episode 笑いながら生まれた子

(引用)生まれるとき赤子は泣くがゾロアスターは笑って生まれた。まわりに座っていた七人の乳人たちは驚き、怖れて言った、「ほんの子供でしかないこの人が、責務を満足に果たした秀れた人のように、生まれるときに笑うとは、偉大なるがゆえか傲慢なるゆえか」と。ゾロアスターの生まれる前、オフルマズド(アフラ=マズダ)に対立する悪しき霊アフラマン(アーリマン)はアコーマン(悪しき意図)に、ゾロアスターの脳髄に忍び込み、その思想を悪に転じることを命じた。それを察知したオフルマズドはただちにウフマンを送り、ゾロアスターの脳髄にいちばん早く合体させた。ゾロアスターが生まれるときに笑ったのはそのためであった。なぜならワフマンは歓喜の霊であったからである。生まれる赤子が泣くのは、アコーマンに攻められ、やがては死にあうことを知るからである。<前田耕作『宗祖ゾロアスター』1997 ちくま学芸文庫版 p.124>
呪師との抗争と入信  ゾロアスターの父ポルシャースパは赤子の示す奇象を占うため呪師を訪ねた。呪師はゾロアスターが不思議な力に守られていることを怖れ、頭を砕こうとしたが、その手は後ろに曲がってしまった。その後も呪師はさまざまな手で亡き者にしようとしたがことごく失敗した。この伝承はゾロアスターが呪師との苛烈な抗争を経て古い祭祀と断絶して新たな世界観を創出したことを意味している。
 15歳になったゾロアスターはコスティークと言われる腰帯を三重に巻いて前と後に結び目を作る、入信式を行った。ちなみにこの「結びつける」という意味の religare から、宗教を意味する religion の語が生まれた。三重の輪は、善い考え・善い言葉・善い行い、という三層の倫理を象徴している。
青春のさすらい   ゾロアスターは多くのことを知りたいと思い、その地方の名声高い人びとを訪ね歩いた。その青年時代に、ゾロアスターは「寛容、やさしさ、思いやり、献身」というゾロアスター教徒の基本的な義務を身につけていった。20歳になったゾロアスターは父と母に別れを告げ、家を出て孤独な旅を続け、その彷徨は数年に及んだ。(このゾロアスターの彷徨はニーチェにインスピレーションを与えている。)

Episode 「裸女の渡し」

 川の流れが激しく速く、女は裸でなければ渡れないために「裸女の渡し」といわれているところがあった。ある時、ゾロアスターが川の岸辺に行くと、七人の男女と老人が渡れずに困っていた。ゾロアスターはみずからを橋となって彼らを渡してやった。これは「自分たちの義務を果たした者たちへの“渡しの象徴”」であり、「ゾロアスターの教えという聖なる橋を渡れば、人びとの行く手には“楽園=浄土”のほかにはない」ことを示している。<前田『同上』p.130>
大天使に導かれ、アフラ=マズダと面談 ゾロアスターが30歳になった。仲春の祭りに招かれた村からの帰り、ダーイテー川の四つ筋に分かれるところを渉って向こう岸に着くと、手に白い杖を携え、髪を巻き、裁ち目も縫い目もない絹の衣をまとう、輝くばかり美しい姿で、身の丈はゾロアスターの9倍もある人に会った。これがアフラ=マズダの使者ワフマンであった。ワフマンに導かれて行くと、強烈な光を発する精霊たちがあらわれ、ゾロアスターは自分の影をみることがなくなった。影が消えたことは、ゾロアスターがすでに超越者の中に加えられたことを意味する。
 なおワフマンに導かれて歩み続けたゾロアスターは、ついに天山にのぼりアシャ(正義)の主アフラ=マズダ(オフルマズド)の前に至り、これより10年にわたり、対話を続け、ついに確固たる信仰を身につけ、マズダの前で布教に努めることを誓った。その対話をゾロアスター自身が書き記したものが『アヴェスター』に他ならない。
困難な布教 神からの啓示を受け、ゾロアスターは「供物として自分の命さえもマズダに捧げます」と誓い、高らかに宣教の声を上げた。40歳となっていたゾロアスターは、こうして布教の旅にのぼったがそれは苦難の始まりであった。特にゾロアスターが、牛を犠牲にして飲酒する祭など、もろもろの悪神(デーウ)を敬うことをやめよと説いたことは、伝統的な牧民の祭司たちから激しく反発された。また、さまざまな悪神が怖れ、諦め、色欲の姿をしてゾロアスターを襲った。家なき砂漠を往来しながら布教に努めたにもかかわらず、その信者となったのは縁者のアラースターイの息子マイドヨーイマンフだけであった。
ウィシュタースパ王の改宗 対話から二年の後、ゾロアスターはカウィ・ウシュタースパ王の居城に赴いた。そこでも王をとりまく旧教の僧から中傷され、捕らえられて拷問された。しかし飢えと渇きと拷問に耐えぬく姿に驚愕した王によって釈放され、ついにゾロアスターは王と直接対話を交わすことができた。ゾロアスターは宮廷に跋扈していた偶像崇拝者たちを次々と論破し、また次々と奇蹟が生じた。ある時、ゾロアスターが王の前に一本の糸杉を植えると、すぐに枝が出て、その葉には金文字で「おお、カウィ・ウィシュタースパ王よ、正教を受けるべし」とあった。こうして王はゾロアスターが42歳の時、ゾロアスターの教えに従うことになった。
宮廷での活躍 このウィシュタースパ王は、ギリシア語でヒュスタスペスと呼ばれており、アケメネス朝ペルシアを創始したダレイオス1世の父の名と一致している。しかし、異説があることは前述の通り。いずれにせよ、ゾロアスターはこの王の宮廷で信任され、専属神官となった。王の信任の篤い宰相の娘を後妻に迎え、娘を宰相の弟に嫁がせるという「政略結婚」で地位を固め、また王は周辺のアーリヤ人部族からの攻撃を撃退することができたのでその教えの正しさを信じたという。<青木『前掲』 p.39>
ゾロアスターの死 
(引用)アフラ・マズダの啓示を受けた預言者として、いまゾロアスターはさらに広い地平をにらんでウィシュタースパの王国に立っているのだ。この国から(いったいそこはどこなのか!)秘儀の開示に歩み出て35年、ゾロアスターはいずこかで世を去ったという。トゥーラーン人によってバクトリアで殺害されたとも、荒野で狼によって引き裂かれて死んだとも、天火に焼きつくされたとも、宗祖の死は漠々としてさだかではない。没後彼の種子は湖底に蓄えられ、幾世紀ものち三人の処女に宿り、三人の救世主が生まれるという。<前田『同上』 p.150>

ゾロアスターの説いたこと

(引用)ゾロアスターはこのように、個々の審判、天国と地獄、肉体のよみがえり、最後の大審判、再結合された魂と肉体の永遠の生ということを、初めて説いた人であった。これらの教義は、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教に採り入れられて、人類の宗教の多くにおいてなじみある項目となった。しかし、これらのことが、充分に論理的一貫性をもっているのは、ゾロアスター教においてである。
 というのは、ゾロアスターは、肉体を含む物質的な創造が善であることと、神の正義の揺るぎない公平さとを合わせて主張したからである。彼によれば、個人の救済は、その人の考えや言葉や行動の総量によるもので、いかなる神も、同情や悪意によってこれを変えるよう介入することはできない。そのような教義の上に、「最後の審判」があると信じることは、充分に畏怖すべき意義をもち、各人は自分の魂の運命について責任をとるだけでなく、世界の運命についての責任も分かたなければならないとされた。ゾロアスターの福音は、このように高尚で努力を要するものであり、受け入れようとする人々に、勇気と覚悟を要求するものであった。<M=ボイス/山本由美子訳『ゾロアスター教』2010 講談社学術文庫 p.74>
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書籍案内

前田耕作
『宗祖ゾロアスター』1997
ちくま学芸文庫版 2003

ゾロアスターの生涯と、彼が古代ギリシアから近代のニーチェまで、ヨーロッパでどのように受け取られてきたかを扱う、希少性のある好著。

伊藤義教訳
『アヴェスター』1967
ちくま学芸文庫版 2012

アヴェスターの原典訳。著者には『古代ペルシア』、『ゾロアスター研究』など大部な研究書がある。京大名誉教授。1996年没。

M=ボイス/山本由美子訳
『ゾロアスター教』
2010 講談社学術文庫

著者はロンドン大学でイラン学を研究。本書はゾロアスター自身には詳しくないが、ゾロアスター教以前からのイランの宗教を的確に紹介している。

青木健
『ゾロアスター教』2008
講談社選書メチエ

ゾロアスターの生涯とその思想を概観し、最後にその変容も説明している。