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贖宥状/免罪符

中世末期のローマ教会が信者に販売した。免罪符とも言う。

 贖宥状は免罪符とも言う。贖は「あがなう」こと、宥は「ゆるす」ことを意味し、罪の許しをお金であがなう(買う)ということになる。一種の「お札」でそれを買った人は現世の罪が許され、天国に行くことができる、また死んだ人のために買えばその人も救われるとされた。教会は贖宥状を販売して教会の収入にしていた。教会が贖宥状を販売する際は、贖宥状説教師を派遣して、町や村の広場で十字架と教皇旗を掲げ、その功徳を説いて売り歩いた。1517年のドイツにおけるローマ教会の贖宥状発売は、ローマのサン=ピエトロ大聖堂の大改修の費用を得るためという理由であった。サン=ピエトロ聖堂は前教皇ユリウス2世の時に始まり、現教皇レオ10世(メディチ家出身)が進めたもの。特にドイツの農民は、贖宥状を購入するという形でローマ教会から搾取されたので、ドイツはローマの牝牛と言われていた。ドイツの高利貸し業者フッガー家がかかわっていた。
 1517年、この贖宥状発売に対して疑義を呈したのがルターの『九十五ヶ条の論題』であり、そこから宗教改革が始まる。

Episode 贖宥状発売の「三位一体」

 ローマ教皇のドイツでの贖宥状発売を引き受け、実際に説教師を村々に派遣したのはブランデンブルク選帝侯の子のアルブレヒトであった。アルブレヒトは1514年にマインツ大司教に選任されたが、その時ローマ教皇に納めるお金をフッガー家から借金しており、その返済に迫られていた。アルブレヒトは贖宥状の販売を引き受けたが、その売り上げの半分はローマ教皇のもとに送られ、半分はフッガー家のものとなる約束だったのだ。実際、この時の贖宥状説教師にはぴったりとフッガー家の手代が付き添い、お金を回収していた。つまり、この時の贖宥状の発売は、ローマ教皇レオ10世、マインツ大司教アルブレヒト、フッガー家の三位一体で行われていたという事になる。<会田雄次・中村賢二郎『ルネサンス』世界の歴史12 河出書房新社 p.262-265>
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会田雄次・中村賢二郎
『ルネサンス』
世界の歴史 12
1989 河出文庫