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修道院の解散

イギリスの宗教改革でヘンリ8世が1536~39年に断行したローマ教会抑圧策。修道院の土地は国教会信者の貴族やジェントリに払い下げられた。

 イギリス宗教改革の一環として、ヘンリ8世は国内の修道院を解散させ、その土地を没収して王の所有とし、貴族やジェントルマン、商人らに払い下げた。ローマ教会と結ぶ勢力である修道院を廃止してその力をそぐと同時に、国王の財政を強化することを狙った措置であったが、結果的に土地の払い下げを受けた貴族やジェントルマン、商人などの新興勢力の台頭の一因となった。
 王妃離婚問題からローマ教皇と対立したヘンリ8世は、1534年に首長法(国王至上法)を議会に制定させ、次に修道院の解散に乗り出した。まず修道院の堕落を攻撃して1536年に小規模な修道院の廃止を決め、さらに反発を抑え込んで、大規模な修道院にも圧力を加え、1539年に大修道院解散法を議会で通過させて合法化した。修道院の土地は王領として没収されたが、順次、新たに創設された貴族やジェントルマン、商人に対する贈与、下賜、貸与、売却という形で払い下げられていった。

イギリス宗教改革の理由

 イングランドで宗教改革が行われた理由の一つに、イギリスの財政問題があった。ヘンリ7世はヨーロッパの一流国を目指して宮殿や教会堂の建造に出費し、さらにヘンリ8世はフランスとスペインの戦争(イタリア戦争)でカール5世側についてたびたび出兵した。そのため、王室財政は深刻な危機に陥っていた。その解決策として、宗教改革による教会財産の没収が視野に入ってきたのだった。
(引用)本来カトリック信仰を抱いていたヘンリが宗教改革を進めたもう一つの背景に経済問題があった。・・・教会財産による財政難の解消である。教皇の権威を否定したことで、それまでローマへ送られていた教会収入の一部が国王の手にもたらされた。さらに、プロテスタントの教義にしたがって、修道院の存在意義を否定することで、その土地財産の没収が図られた。当時、イングランド全土のほぼ4分の1が、大小800あまりの修道院の所有になっていたといわれ、そこからの収益は国家収入に匹敵する莫大なものであった。1536年と39年の二度にわたって、修道院の綱紀の乱れを口実に、すべての修道院が解散させられ、その広大な所領は国王のものとなった。<指昭博『図説イギリスの歴史』2002 p.49-50>
 同書にはこの時破壊された修道院の一つ、聖メアリ修道院跡の壁だけの写真が掲載されている。その説明によれば、修道院の建物は国教会の大聖堂などとして残ったものもあるが、大部分は建築用石材として狙われ、近隣のジェントルマン以下農民に至るまで、俗人による収奪の対象となり、貴重な財物・書籍なども多くが散逸・隠滅したという。

救貧法制定へ

 修道院はそれまで、貧民や浮浪児を収容する働きもあったが、ヘンリ8世によって解体された。また、羊毛生産の増加に伴うエンクロージャー(第1次)が進んだために土地を無くした農民が都市に流れこんで貧民化する問題も起こってきた。そのような社会問題に直面したエリザベス1世は、1601年に救貧法を制定し、国教会の教区ごとに救貧税による貧民救済などの業務を義務づけ、イギリスの社会保障政策の第1歩となった。
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書籍案内

指昭博
『図説イギリスの歴史』
2002 河出書房新社