イギリス国教会
16世紀、イギリス宗教改革によって成立したイギリス国王を首長とする教会とその信者を言う。プロテスタントではあるがピューリタンなど非国教徒とは対立し、名誉革命後は国家宗教として確立した。
1530年代から70年代にかけて、テューダー王朝のヘンリ8世、エドワード6世、エリザベス1世によって進められたイギリス宗教改革によって成立した、ローマ教会から分離独立したイギリス独自の教会制度。アングリカン=チャーチ Anglican Church と言われる。 → イギリスの宗教各派
次のチャールズ1世は国教会のカンタベリー大主教ロードらを腹心として専制政治を行い、一方で王妃をフランスから迎えたこともあってカトリック復興を目論んでいると疑われ、議会で多数を占めるジェントリ層(長老派を含むピューリタンが多かった)との対立が深まり、1642年にピューリタン革命が始まった。その過程で権力をにぎったピューリタンのクロムウェルは、王政を否定すると共に国教会を否定し、ピューリタン精神に基づく厳格な独裁政治を行った。しかしその独裁政治は民心から離れ、その死後の1660年に王政復古となった。
名誉革命では「権利の章典」の制定された1689年に、寛容法も制定され、非国教徒の信仰の自由は認めらピューリタン革命以来の国教会と非国教徒の和解がもたらされた。ただし、審査法は続いていたので非国教徒が公職に就けないことは変わらなかった。また、カトリックに対する排除はなお続いていた。
なお審査法が廃止されるのは、ようやく19世紀の自由主義の強まりによった1828年であった。さらにカトリック教徒の信仰の自由はカトリック教徒解放法を待たなければならなかった。
高教会派(ハイ=チャーチ) 教会・聖職者・典礼の権威を高く保とうとし、国教会からピューリタン的要素を排除することに熱心であった。彼らの一部は名誉革命と議会王政を否定して臣従の拒否を宣言し、ジェームズ2世の息子をジェームズ3世として復権させることを支持していた。(ジェームズ2世の息子はフランスのルイ14世によって保護され、ジェームズ3世と称していた。彼を支持するイギリス国内の勢力をジャコバイトといった。)
低教会派(ロー=チャーチ) 伝統と典礼よりも聖書に即した信仰を重んじ、ピューリタンたち非国教徒との協力・興隆を排除しなかった。つまり、1689年の寛容法の精神に忠実に、非国教徒共に「名誉革命体制」を担っていく主体だった。但しこの両派は共にプロテスタント国教会の中の二つの傾向であって、その違いは不分明で、中間派が存在した。<近藤和彦『民のモラル』2014 ちくま学芸文庫 p.94>
国教会の内容
ヘンリ8世及びエリザベス1世の制定した首長法(国王至上法)、エドワード6世が制定した一般祈祷書、エリザベス1世の時に完成した統一法、および信仰箇条などの規定からまとめると次のような特徴がある。- イギリス国王が教会の首長となること。(国王が教会の最高統治者となる。)
- 主教制による教会組織。(国王-大主教-主教-副主教-司祭長-司祭)
- 教義はカルヴァン主義に近い。(信仰義認説、聖書主義、予定説など)
- 儀式はカトリックのものを残す。(聖職服の着用、聖餐式の時の跪拝など)
ピューリタン革命
イギリス国教会制度は、エリザベス1世の統一法制定で一応完成したが、次のジェームズ1世は絶対王政の強化をめざして国教会による宗教統制を強め、カトリック信者とプロテスタント(カルヴァン派が多く、ピューリタンと言われた)は厳しく弾圧された。カトリックはイングランド北部からスコットランドに勢力を残しており、ピューリタンは都市部の中産階級に多かったが弾圧されてアメリカ新大陸に移住するものも多かった。次のチャールズ1世は国教会のカンタベリー大主教ロードらを腹心として専制政治を行い、一方で王妃をフランスから迎えたこともあってカトリック復興を目論んでいると疑われ、議会で多数を占めるジェントリ層(長老派を含むピューリタンが多かった)との対立が深まり、1642年にピューリタン革命が始まった。その過程で権力をにぎったピューリタンのクロムウェルは、王政を否定すると共に国教会を否定し、ピューリタン精神に基づく厳格な独裁政治を行った。しかしその独裁政治は民心から離れ、その死後の1660年に王政復古となった。
審査法の制定
王政復古期には、チャールズ2世がカトリックを復興させようとした。それに対してイギリス議会は、1673年に審査法を制定し、官吏登用は国教会信者に限定するとした。それはカトリック教徒を排除する目的であったが、非国教徒(国教徒以外のピューリタンなどの新教徒)も排除の対象とされたため、イギリスは国教徒のみが官職に就けることとなり、国教会の優位が形成された。名誉革命体制
次のジェームズ2世もカトリック復興を画策したため議会は国王を追放し、オランダからメアリ2世とウィリアム3世を迎えるという名誉革命が実行された。これによって実質的には議会主権が確立し、形式的な立憲君主制とともに国王を首長とする国教会がイギリスの国家宗教となる「名誉革命体制」が成立した。名誉革命では「権利の章典」の制定された1689年に、寛容法も制定され、非国教徒の信仰の自由は認めらピューリタン革命以来の国教会と非国教徒の和解がもたらされた。ただし、審査法は続いていたので非国教徒が公職に就けないことは変わらなかった。また、カトリックに対する排除はなお続いていた。
なお審査法が廃止されるのは、ようやく19世紀の自由主義の強まりによった1828年であった。さらにカトリック教徒の信仰の自由はカトリック教徒解放法を待たなければならなかった。
国教会の高教会と低教会
国教会(アングリカン=チャーチ)は名誉革命でイギリスの国家宗教としての地位を確立したが、同時にその内部に「高教会派」と「低教会派」という分裂と対立が生じていた。高教会派(ハイ=チャーチ) 教会・聖職者・典礼の権威を高く保とうとし、国教会からピューリタン的要素を排除することに熱心であった。彼らの一部は名誉革命と議会王政を否定して臣従の拒否を宣言し、ジェームズ2世の息子をジェームズ3世として復権させることを支持していた。(ジェームズ2世の息子はフランスのルイ14世によって保護され、ジェームズ3世と称していた。彼を支持するイギリス国内の勢力をジャコバイトといった。)
低教会派(ロー=チャーチ) 伝統と典礼よりも聖書に即した信仰を重んじ、ピューリタンたち非国教徒との協力・興隆を排除しなかった。つまり、1689年の寛容法の精神に忠実に、非国教徒共に「名誉革命体制」を担っていく主体だった。但しこの両派は共にプロテスタント国教会の中の二つの傾向であって、その違いは不分明で、中間派が存在した。<近藤和彦『民のモラル』2014 ちくま学芸文庫 p.94>
現代のイギリス国教会
1983年1月、イギリス国教会の全国主教会議は、「核先制使用国(者)を罪人と見なす」という決定を圧倒的多数で行った。同年4月、イギリスでは10万人規模の反核集会がグリナムコモンで開催されており、核非武装運動が盛り上がっていた。米ソがレーガン・ブレジネフ時代の新冷戦といわれた核の危機の中で、国教会が宗教者としての発言をしたことで注目された。