イギリスの宗教改革
16世紀のヘンリ8世の離婚問題に端を発し、イギリスの教会はローマ教会からの分離独立し、エリザベス1世の時に徳爾の国教会を樹立した。
イギリス(イングランド)の宗教改革は、テューダー王朝の1534年、ヘンリ8世の王妃離婚問題から始まるという特異な形態をとった。信仰の内容での革新運動は伴わず、ローマ教皇とその勢力下にある教会および修道院との政治的対立という形で進んだ。メアリ1世の時にはカトリックに復帰するなどの混乱をへて、1559年にエリザベス1世の諸改革によってイギリス国教会制度が確立した。
イギリスのローマ=カトリック教会は、その後も王室、貴族に信仰され、農民に浸透して権威を保っていたが、17世紀になると大陸諸国と同じように、聖職者の腐敗や堕落が表面化してきた。教会や修道院は領地経営や華美な生活におぼれ、民衆の信頼を失い始まるという現象がイギリスでも始まっていった。またローマ教皇の地位もアビニヨン幽閉以来、フランス人に占められ、イギリスへの関心が薄れてきたこともあった。
宗教改革の先駆
イギリスの宗教改革の先駆者としては14世紀に最初の聖書の英語訳を行い、ローマ教会を批判しコンスタンツ公会議で異端と断定されたウィクリフがいるが、運動としては連続性はない。イギリスのローマ=カトリック教会は、その後も王室、貴族に信仰され、農民に浸透して権威を保っていたが、17世紀になると大陸諸国と同じように、聖職者の腐敗や堕落が表面化してきた。教会や修道院は領地経営や華美な生活におぼれ、民衆の信頼を失い始まるという現象がイギリスでも始まっていった。またローマ教皇の地位もアビニヨン幽閉以来、フランス人に占められ、イギリスへの関心が薄れてきたこともあった。
ヘンリ8世の改革
1517年、ドイツにおいてルターが宗教改革をはじめてその思想はイギリスにももたらされたが、ヘンリ8世はルターの教説を認めず、それを弾圧したのでローマ教会から「信仰の擁護者」の称号を与えられたほどであった。そのヘンリ8世は王妃離婚問題でローマ教皇と対立することとなり、その機会に絶対王政の強化をめざして、教会を国王に服従させようとしたのだった。1534年の首長法(国王至上法)で国王を教会の唯一の最高指導者と認めさせ、さらに修道院を解散してその財産を没収した。これによってイギリス国教会が成立したが、この段階では教義・儀式ではローマカトリックと大差はなかった。エドワード6世の改革とメアリ1世の反動
ヘンリ8世の子のエドワード6世の時、プロテスタントの教義を取り入れた「一般祈祷書」と信仰箇条が制定されたが、つづいて王位を継承したメアリ1世は、夫がスペイン王フェリペ2世であったこともあってカトリック信者であり、カトリックに復することを強行した。エリザベス1世の改革
ヘンリ8世以来、テューダー朝のもとで宗教政策は混乱、動揺した。エリザベス1世は宗教統制を確立することによって絶対王政の安定を図る必要に迫られ、メアリ1世のカトリック政策を一掃して国教会の立場に立つことを明らかにし、即位翌年の1559年に、首長法を再度制定し、また統一法を定めて礼拝方式を定め、カトリック勢力を弾圧した。さらに1563年には信仰箇条を確定して国教会による宗教統制を徹底した。これによってイギリスの宗教改革は完成したと言うことが出来る。カトリックとの訣別は1588年にスペインの無敵艦隊を破ったことによって決定的となった。イギリス国教会の特質
エリザベス1世の時期に確立したイギリス国教会は特異な性格を持っていると言える。その教義は、人が信仰によってのみ義とされることを説き、聖書を信仰の唯一の根拠とし、予定説を認めるなどカルヴァン派に近いものがあるが、しかし儀式面では白い聖職者の制服着用や、聖餐の際の跪拝(ひざまずく)などカトリック教会の要素を残し、教会制度ではイギリス国王が教会の最高の統治者となり、その下に大主教・主教・副主教・司祭長・司祭という主教制度を採っており、この面ではカトリックおよびルター派と近かった。その後のイギリスの宗教対立
しかしイギリスではその後も宗教的な対立がつづく。カトリック勢力も根強く、プロテスタント(新教)も国教会(アングリカン=チャーチ)と非国教会(カルヴァン派の流れを汲むピューリタン、プレスビテリアンなど)とに分かれ、それが政治的な対立となって17世紀のイギリス革命に突入していく。 → イギリスの宗教各派