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修道院

キリスト教の信仰を深める修行の場として作られた。改革運動である修道院運動が起きるが、修道院自身も大領主化した。

 キリスト教での修道院とは、信仰を広げる場である教会に対して、俗界を離れて禁欲的規律を守り、宗教的共同生活をおくることで信仰を深める場所である。すでに4世紀ごろからエジプトやシリアなどの東方のキリスト教徒の中に、現世から離脱して苦行を重ねる修道士が現れ、またその共同生活である修道院も生まれたが、ヨーロッパ・キリスト教世界での修道院の始まりであるとともに最も重要な修道院となったのは、529年、ベネディクトゥスが中部イタリアに建設したモンテ=カシノ修道院であり、そこで始まったベネディクト派の運動からである。

修道士 「血を流さない殉教」

 苦行と禁欲による霊魂の救いを求める修道士の活動は4世紀のエジプトに起こった。修道士(英語の Monk )を意味するラテン語 monachus は「ひとり孤独に暮らす」の意味で、イエスの福音の教えに従い、家族と離れ、結婚もせず、すべてを捨て、ひたすら神を捜し求める人である。エジプトやシリアではそのような隠者のような修道士活動がまず始まった。313年にミラノ勅令が出されて迫害が終わり、殉教するものがいなくなると、殉教に代わって苦行する修道士が、我が身を神に捧げた者として崇敬されるようになった。修道士は「血を流さない殉教」と呼ばれたのだった。 → 聖職者階層制

修道院の始まり 4~5世紀

 孤独な修道士の活動ではなく、共同体を作り、生活をともにしながら修行する修道院もまた4世紀のエジプトで始まった。パコミオスという修道士が323年に上エジプトで初めて修道士の共同生活を開始、すでに戒律も作っていた。
 また5世紀には早くもアイルランドに修道院文化が根づいたが、それは聖パトリックという修道僧の活動によるものであった。修道院は世俗から離れ、厳しい戒律の下で禁欲的な生活を送る修業の場であったが、同時にラテン語による聖書の習得や写本の製作を通じ、学識と芸術の殿堂としての権威を確立し、政治的権力から自治権を認められる存在となっていった。
 修道院文化は学術に留まらず、修道士の生活は自給自足が原則であったので、農作物の栽培、家畜の飼育、織機の耕具の聖像などの技術にも及び、技術センターの役割も果たした。さらに、各地に作られた修道院は、ヴァイキングの侵入などに際して、周辺の住民が避難する城塞の役割も有していた。このようなアイルランドで発達した修道院は、やがてスコットランド、イングランドからフランスやスペインにも広がっていった。

ベネティクトゥス派の修道院

 529年ベネディクトゥスは中部イタリアのモンテ=カシノの山中に修道院を建設し、後のキリスト教世界に大きな影響を与える古都となった。 ベネディクトゥスは、清貧・貞潔・服従を説き、「祈り、働け」をモットーとして純粋な信仰を深めようとした。修道士は毎日4~5時間の祈りと、6~7時間の労働(農耕、建築、書写など)に従事した。540年頃、ベネディクトゥスは『ベネディクトゥス戒律』を執筆、それを遵守する修道士たちはベネディクト派と言われるようになった。

修道院運動

 この6世紀のヨーロッパは、ゲルマン人の大移動が展開されており、特にイタリアには最後の民族移動といわれるランゴバルド人が侵入し、古代的なローマの秩序や統一、文化などが崩壊していく時期であった。そのような中でキリスト教信仰にも動揺が生じ、堕落も始まっていた。それに対してイエス時代の信仰を取り戻し、同時に東ローマ帝国のもとにあるコンスタンティノープル教会との首位の座をめぐる争いで優位に立つために、教会の改革に乗り出したのが6世紀末に教皇となったグレゴリウス1世であった。グレゴリウス1世はベネディクト派の修道院運動を支持し、同派の修道士をヨーロッパ各地に広がり、特にゲルマン人(アリウス派キリスト教徒)への布教を展開した。これによってローマ=カトリック教会は西ヨーロッパに広く定着していくことになるがその先兵となったのがベネディクト派修道会であった。この運動はフランク王国という新たなローマ教会の保護者と結びついて、その保護のもとで教皇権が確立していくという経緯をたどることになる。
 中世の修道院・修道会を中心とした改革運動である修道院運動の波はその後もいくどかの高揚期を見せる。
クリュニー修道院を中心に展開された11世紀の修道院運動
・次に12~13世紀のシトー派修道会による大開墾時代の展開
・さらに13世紀の托鉢修道会による修道院運動 
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書籍案内

朝倉文市
『修道院にみるヨーロッパの心』世界史リブレット
1996 山川出版社