印刷 | 通常画面に戻る |

航海法

1651年、イギリス・クロムウェルの時に制定された自国の利益保護のための貿易統制法。イギリスに商品を運ぶのをイギリス船か産出国の船に限定し、事実上オランダの中継貿易を妨害しようとした。反発したオランダとの間で17世紀後半に3次に渡る英蘭戦争が起きた。19世紀に自由貿易論が強まり、1849年に廃止される。

 Navigation Act 航海条令ともいう。広義には14世紀以来のイギリスの伝統的貿易政策であるが、狭義にはピューリタン革命時の1651年クロムウェル政権が定めた航海法をいう。その後、王政復古期にも1660年の第2次航海法(海上憲章)、63年には貿易促進条令(市場法)が制定された。

航海法の内容

 イギリスへのアジア・アフリカ・アメリカからの輸入はすべてイギリス船によること、ヨーロッパからの輸入はイギリス船かその生産国、あるいは最初の積出国の船によることを定めた。

航海法のねらい

 当時、独立を達成して海外貿易に進出し、イギリスの重大な競争相手となってきたオランダの中継貿易に打撃を与えようとしたものである。必ずしもクロムウェルの政府の政策ではなく、レヴァント、東インド、イーストランドなどの貿易商人の要望によって議会で成立したもの。イギリスが自国の貿易、及び産業をオランダの脅威から守ろうとした、重商主義政策である。イギリスへの輸入を自国船か生産国の船に限定することで、中継貿易に依存しているオランダに打撃を与えることになる。

英蘭戦争

 イギリスは航海法に基づいてオランダ船に対する臨検捜索権を行使しようとしたため、翌1652年に反発したオランダとの間にイギリス=オランダ戦争(英蘭戦争)が始まる。
 戦争は、3次にわたり展開された。1952年の第1次ではイギリス海軍がオランダ海軍に勝ったが、1665年に始まった第2次では、1666年6月の「四日海戦」で大敗した。1672年の第3次では同盟を結んだフランスがオランダに侵攻したオランダ戦争が同時に行われ、オランダは危機に陥ったが海上ではイギリス海軍は再び敗れた。
 しかしこのとき、オランダの総督ウィレム3世は、フランスと戦うことを優先してイギリスとは提携に転換してジェームズ2世の娘と結婚、関係を深め、名誉革命でイギリス国王に迎えられることになる。

航海法、廃止へ

 この頃からイギリスは世界の海上貿易の覇権を握るようになり、航海法はその後も、イギリス重商主義の根幹をなす法律としてその繁栄を支えた。19世紀には自由貿易主義が台頭すると、貿易統制に対する不満が強まり、1849年に廃止される。

航海法廃止

1849年、イギリスへの輸入を規制していた航海法を廃止し、自由貿易主義を拡大した。

 1849年6月26日、イギリスホィッグ党ラッセル内閣で、自由貿易主義政策の一環として航海法(航海条令)が廃止された。航海法(航海条令)はピューリタン革命の時、クロムウェルが1651年に制定したもので、イギリスに運ばれるヨーロッパ以外の産物、商品はすべてイギリスの船で運ばれること、またヨーロッパの産物、商品はイギリス船かその産出国の船で運ばれることを定めた。ねらいは、当時海上貿易権で争っていたオランダが中継貿易(自国産品でない商品を中継する)で利益を上げていたことに打撃を与えることであった。航海法制定の翌年から英蘭戦争が勃発した。その後も約200年にわたり、イギリスの保護貿易政策の一環として、継承されていた。
 産業革命後、成長した産業資本家たちはイギリス産品を自由に輸出するためには航海法は障害になるとして廃止を主張し、1849年に実現した。なお、この時は厳密には沿岸貿易以外の自由化であり、沿岸貿易の自由化は1854年であった。

航海法廃止の意味

 これは、1820年代に始まった、イギリスの一連の自由主義的改革がさらに推進されたものであり、1833年の東インド会社の商業活動停止、同年の奴隷制度廃止、1846年の穀物法廃止と続いた政策の、最後の仕上げとなった。世界に先駆けて産業革命を成し遂げ、1840年のアヘン戦争で中国を屈服させたたイギリスの自信の現れであった。
 イギリスの三角貿易が盛んに行われ、中国からのをイギリスに運ぶ海運は、イギリス船に独占されていたが、航海法廃止によって、アメリカ船も参入できるようになった。そのため、香港など中国の港から茶を積んだ帆船が、どれだけ早くロンドンに到着するかというティー・レースが一段と激しくなった。
印 刷
印刷画面へ