アンボイナ事件
1623年、東南アジア・モルッカ諸島などの香辛料貿易をめぐる、オランダとイギリスの対立。イギリス勢力が排除され、オランダの東南アジア島嶼部(インドネシア)進出が強まる結果となった。イギリスはこの後、その進出を東南アジア半島部とインド大陸へと向けていく。
アンボイナ島 GoogleMap
モルッカ諸島を巡る対立
モルッカ諸島は香料諸島とも言われ、香辛料の中の丁子とナツメグの唯一の産地として重要だった。1511年にマラッカを占領して東南アジアに進出したポルトガルがまずこの地を押さえ、次いでスペインのマゼラン艦隊が西回りで太平洋を横断してこの地をめざし、両国がこの地で争うようになった。初めはポルトガルが優位に立ってその香辛料を独占していたが、17世紀には1602年にオランダ東インド会社を設立したネーデルラント連邦共和国(オランダ)が進出してポルトガル勢力を駆逐し、アンボイナ島に要塞を築いた。それに対してやや遅れて進出してきたイギリスのイギリス東インド会社が、モルッカの香料貿易に割りこんできた。両国の東インド会社が激しく争ったが、本国ではその対立を回避しようとして、1619年に両社を合同させ、共同で経営させることを決定した。そのため、オランダ東インド会社のアンボイナ要塞の一部にイギリスも商館を設けることになった。事件の経緯
本国では両社の合同は合意されたが、現地では依然としてオランダ人、イギリス人の対立が続いており、両社は対抗心を燃やしていた。そんなとき、1623年3月9日にオランダ商館は、イギリス商人が日本人傭兵らを利用してアンボイナのオランダ商館を襲撃しようとしているという容疑で、島内のイギリス人、日本人、ポルトガル人を捕らえ、拷問の末に自白させ、20名(イギリス人10人、日本人9人、ポルトガル人1名)を処刑するという事件が起こった。イギリス人と日本人の共謀した襲撃計画とは事実ではなかったらしく、オランダがイギリス勢力を排除し、モルッカの香辛料の独占をねらったものと考えられている。イギリスの撤退とオランダの覇権
オランダのもくろみどおり、イギリスは事件に反撃することができず、東南アジアでの香辛料への進出をあきらめ、その後はインド方面への植民地進出をはかることとなる。また同年、イギリスは日本での貿易も経済的な採算がとれないという理由で平戸のイギリス商館を閉鎖し、撤退している。一方オランダはすでに1609年に建設された平戸の商館を拠点に日本との貿易を続け、後に長崎に移ってからも鎖国政策の中で唯一江戸幕府が認めたヨーロッパ諸国とされた。また、1619年にはジャワ島のジャカルタをバタヴィアと改称して東インド会社による東南アジア島嶼部支配の拠点としする。
東南アジアにおけるオランダとイギリスの対立事件であるアンボイナ事件は、イギリス国内の反オランダ世論を刺激し、17世紀後半の英蘭戦争の一因ともなった。しかし、東南アジア島嶼部でのオランダの優位は続き、1799年からはオランダ領東インドとして直接支配を行うようになる。