ダホメ王国/ベナン
アフリカの西岸、ギニア湾に面した現在のベナン付近にあった黒人王国。黒人奴隷の供給地からフランスの植民地となった。1960年、ダホメ共和国として独立し、1975年に国号をベナンに変えた。
アフリカの西岸、ギニア地方にあった黒人国。ベニン王国の西に接し、現在のほぼベナンにあたる。ダホメ王国は17世紀初め頃、アポメーを都として王国を形成した。早くからポルトガルとの奴隷貿易を行い、東隣のベニン王国と共に最大の黒人奴隷供給地であった。ポルトガルに対抗するようにこの地にフランスが進出し、ルイ14世時代のコルベールの重商主義政策に基づく西インド会社が1666年にウィダーに商館を設け、1671年には大砲で武装した砦とした。またポルトガルも商館兼要塞をウィダーに造り、ダホメ王国が近隣の小国との戦争で獲得した捕虜を奴隷として買い込み、大西洋の彼方、ブラジルに送った。現在でもウィダーにはその奴隷貿易用の要塞が残っている。なお、ブラジルでは世界で最も遅く、1888年まで黒人奴隷制度が認められていた。
ダホメ王国では毎年、モロコシ(コーリャンの一種)や米などの収穫のあと、王が数万人に上る軍隊を率いて近隣地域との戦闘に出かけ、捕虜を連れ帰って奴隷として王室や隊士への報酬とした残りをヨーロッパ商人に売却した。代価はブランデーや宝貝、ハンカチ、綿織物などだった。<布留川正博『奴隷船の世界史』2019 岩波新書 p.70-72>
奴隷貿易王国
ダホメ王国はその東のアシャンティ王国と並んで奴隷貿易で繁栄した。もともとは内陸部の王国だったが、アガシャ王(在位1708~32年)の時にベニン湾の奴隷貿易の拠点ウィダを支配し、奴隷貿易を独占、王室の重要な収入源としてした。ウィダにはフランスやイギリスから奴隷貿易船が入港した。ダホメ王国では毎年、モロコシ(コーリャンの一種)や米などの収穫のあと、王が数万人に上る軍隊を率いて近隣地域との戦闘に出かけ、捕虜を連れ帰って奴隷として王室や隊士への報酬とした残りをヨーロッパ商人に売却した。代価はブランデーや宝貝、ハンカチ、綿織物などだった。<布留川正博『奴隷船の世界史』2019 岩波新書 p.70-72>
フランス植民地となる
ダホメーは19世紀末に国王がフランス保護領となることに合意、次の国王がその協定を破棄すると、フランスはセネガルでフランス式に訓練した軍隊を派遣して武力制圧し、王国は滅亡した。その後、フランス領西スーダンの一部として植民地支配を受け、1960年の独立まで続いた。ベナン共和国
アフリカのギニア湾に面し奴隷海岸と言われた旧フランス領。1960年にダホメー共和国として独立し、1975年にベナン共和国に国号を変更した。
ベナン共和国 GoogleMap
その海岸では、ダホメ王国が内陸から捕獲してきた黒人を奴隷として、ポルトガルの奴隷商人に売却し、大西洋を越えて新大陸に運ばれたので奴隷海岸と言われるようになった。17世紀後半にポルトガルが衰えるとフランスが進出し、フランス人奴隷商人もここで利益を上げた。
19世紀末に帝国主義諸国によるアフリカ分割が進む中でフランス領となった。第二次世界大戦後もフランス植民地として続いたが、1960年のアフリカの年のアフリカ諸国の独立に乗じて、ダホメ共和国として独立した。
ベナン共和国に国号変更
ベナン共和国国旗
国号はアルファベットでは、Benin と綴るがこれをフランス語読みしで「ベナン」と言っている。フランス植民地であったことが尾を引いている。
Episode ベナンと日本の架け橋
『そこかヘンだよ日本人』に出演して一躍知られるようになったアフリカ人、ゾマホンはベナン共和国の出身で、1994年に自費留学生として来日し、苦学しながらマスコミで成功、後に駐日ベナン大使に就任した。日本のTV視聴者はアフリカのどの国から来た人なのか全く意識しないが、本人はベナン人であることを強く意識しているようだ。アルバイトをしながら上智大学大学院で国際関係を学び、テレビ・タレントとして知られるようになってからは、収入の多くを祖国に送金、また所属したたけし軍団の縁でビートたけしの支援を受け、学校を設立するなど貢献を続けている。2012年からは駐日ベナン大使として活動、ベナンと日本の架け橋になるという目標を実際に果たした。私たちはアフリカ人タレントを出稼ぎとして笑い飛ばしてしまうことが多いが、多くは真面目に友好に取り組んでいる。 → ZOMAHOUN.com
このゾマホン氏が、将来はベナンの大統領にしたいと話している日本人がいる。それは2019年にアメリカNBAドラフトⅠ巡目でワシントン・ウィザースに指名されてにわかに脚光を浴びた、“日本人”八村塁選手。彼の父親がベナン国籍を持つベナン人である。